─宵越し

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 吹き抜けから冷たい風が入り込む。  メロが石畳に踏み出した。大通りに沿って葉を茂らせる桜並木から花弁が舞い、メロはその一枚をすばやく捕まえた。  俺が追いつくと彼は振り返って、何事もなかったかのように「それにしても綺麗だね〜」と夜桜の下で両手を広げる。  風除けの役割も担う大樹は地下深くに根を張り、メロを三人束ねても足りないほどの太い幹から枝を伸ばして、牡丹のように丸く寄り集まった小花を咲き誇らせている。 「こんなに綺麗なら食べられるかも?」 「それは流石に……、あっ」  止める間もなく、メロは桜の花弁を口に含んだ。  顎を少し動かしたのは咀嚼しようとしたためだろう。けれど、すぐにティッシュペーパーに吐き出した。  やはり食用でもない庭木の桜など食べられたものではないらしい。  俺が内心おろおろしているのを余所に、メロは「ん〜塩漬けしてみたらいけるかな〜」と呑気なことを言っている。  彼によると、桜の花や葉は、塩で漬け込むと糖分が分解されてクマリンという物質が生じ、それが一般的に桜の風味とされているものらしい。 「なるほど……それじゃあ、桜餅とシナモンの風味が似ているのも何か関係があるのかい?」  ひとつ思い出したことを尋ねると、メロは「そのとーり!」と親指を立てて頷く。  クマリンはシナモンにも入っているのだそう。  さらりと飛び出す専門的な知識達に、まだ学生なのに、と思わず見直してしまう。  さすがはメロだ。ぽえぽえした見た目に驚いたこともあったが、中身はしっかり者が九割なのである。平の風紀に頼られる率も俺を差し置いて最も高い。きっと素の人徳だろう。  それにしても親孝行とはお見逸れする……いや、継がないんだっけか? まあなんでもいいや。メロはメロだし。  感心していると、メロは桜の花弁に花を近づけて匂い、「うーん!」と感嘆する。そして脈絡なくどこか暗い顔になる。 「でも、なんでシナモンは漢方みたいな扱いされてるんだろうね。不思議〜」 「ええと……どこかおかしな点が?」 「ほら。クマリンって肝臓に悪い性質があるらしいからぁ……」 「毒性があるの?!」  思わず前のめりになって訊いたら、メロはきゃっきゃと楽しげに肩を揺らした。どうやら脅かされただけらしい。 「うちもだけど、だいたいの桜餅の葉っぱにはクマリンがたーくさんの大島桜を使われてるんだ〜。でも、ほら。メロも元気でしょ?」  むん、と腕にちからこぶを作ってみせる。  「確かに……」と俺も自分の胸に手を当ててみた。心臓は今日も元気に稼働中である。脈があまり安定していないのは睡眠不足ゆえだろうが、動いているだけ上等だろう。  脈拍といえば、と俺は塀の外で宿を借りた夜を思い出す。  あのときに出会った完全防備ヒューマンは元気だろうか。まるで運命のような引力に惹きつけられ、そのときの脈拍はかなり上昇していた記憶がある。桜の幹に触れながら、俺は目を細めた。  また夜の街を彷徨いていたら偶然にすれ違うこともあるだろう。そのときは手合わせ願いたいものだ。眠気覚ましに良さそうだし。  くしくし目を擦っている俺とは対照的に元気っ子であるメロは、うずうずと足踏みしてから、その場で「あ〜もう!」と飛び跳ねた。  俺はちょっと身構えた。また話を戻されるのではないかと思ったのである。  しかし、次にメロの発した言葉は拍子抜けするほど、無邪気な普段の彼らしいものだった。 「お花見したぁい!」  「桜餅の話してたら食べたくなっちゃったね〜!」と全身に力を入れて熱っぽく続ける。  俺はそういった食い意地も風流心もよくわからないので、ひとまず「そうですねぇ」とふんわり同意してみる。  するとメロは「あ、ほんと?」と嬉しそうに目を輝かせた。  あ、なんか嫌な予感がする……と思ったところで、メロが一目散に駆け出した。 「じゃあリョウ呼んでくる〜!!」 「え!? いや待っ、…………行っちゃった……」  豪脚の持ち主たるメロはあっという間に校舎の影に消える。  俺は唖然としてそれを見つめていたが、不意に鼻を掠めた濃い桜の薫りに振り向いた。
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