─宵越し

26/29
前へ
/301ページ
次へ
 学園の桜の大半はソメイヨシノという品種の樹だ。学園の、というかおそらく日本の桜のほとんどがそうではないだろうか。  遺伝子のすべての揃ったクローンは規律正しく剪定され、白い五枚の花弁が纏まって膨らんだ枝木は、春色の空気の上をバウンドするように姿勢よく揺れる。  この時期によく見かける光景だ。特に校門。  彼らは十二人ずつ綺麗に整列している。  その十二番目と次の一番目の間には空間があって、そこにはまったく別の桜が──エドヒガンという八重咲きの枝垂れ桜が揺れている。  庭師の手が入っているはずなのにどこか浮いて見えるのは、彼女の花が仲間外れの紅色だからだろう。  しかしとても見事に咲いている。  俺のいるこのスペースにも彼女は立派に存在していて、けれどもやはり彼女の側に同じ種類の木はいない。一人で立派に花々を垂らして揺れていた。  ライトアップされた桜の下、蔓のように伸びる細い枝に指先で触れる。赤い花弁は光が色変わりするたびに紫や橙、薄紅へと表情を変えた。  俺は無意識につぶやく。 「……ここにも死体が埋まってるのかな」 「だとしたら風情があんじゃん。良い感性してんなー?」  返事を期待したものではなかった。しかし、どこからか声が落ちてきた。  びっくりして肩が跳ね上がる。そんな俺を、ケケと誰かが笑う。その声は枯れていた。  つんとするアルコールの匂いが目の前を漂う。  そこでようやく、先程まで見入っていた枝垂れ桜に視線を移す。  花を実らせた枝木が折り重なっているせいでよく見えないが、幹が四つ又に分かれる辺りに、誰かいる。  どうやらとびきり太い枝に腰を下ろし、同じだけの太さの枝に背中を凭れ、だらしなく半身を寝かせているらしい。  俺はヴェールのような枝をくぐって視線を巡らせた。すると目の前に、ずるりと降ろされた長い腕があって、その先っちょに徳利を握る骨張った大きい手があった。  しかしやはり顔までは見えない。思ったより高いところに座っている。 「……良い夜ですね……?」 「そうか?」 「アッ……ス………………」  会話終了。しかもコミュ障を晒しての敗退。  思わぬ不意打ちの登場だったため、いまいち主導権を握れなかったが、王子様にあるまじき失態である。  どうやって取り繕おうか考えていたら、もっちゃもっちゃと間抜けな咀嚼音が聞こえてきた。それと甘じょっぱい匂いも少しだけ。みたらし団子だろうか。  鼻歌交じりに食べている辺り、機嫌は損ねていないらしい。というか自分で自分の機嫌を取っているともいえるのか、これ。勝手に幸せになってくれるのはエセ王子としてとても助かるが。 「お花見ですか?」 「ア? なんか文句あんの?」 「……木登りは危ないので」 「落ちねーよ。つーかそういう校則もねェだろ?」 「そうですが……」 「あ、マジで無いんだなー? へー」  へー、じゃねえ。俺はわなわなと震える拳をポケットにしまった。  名無しの権兵衛はぐびぐびと喉を鳴らし、徳利から注ぎもしない酒を飲んでいる。そしてまた団子をもちもちと噛み、「美味(ウメ)ー」と誰にともなく喜び、また酒に口をつける。  こんなの見せられたらお腹が減って仕方がない。メロの持ってくるお団子を夢見て我慢したが、放課後の男子高校生の胃にはかなり毒だ。今にも腹の虫が鳴きそうである。  早く来ないかなあと校舎の方を見たとき、名無しの権兵衛が咳き込んだ。しかも噎せている。 「呑みすぎですよ」  嗜めたら、げしょげしょいいながら「ちげーワ」と反論してきた。 「ならその手にある盃は僕の幻覚なんですね」  桜の茂みから垂れている逞しい腕を指で突付くと、名無しの権兵衛がケケと笑う。 「これはホンモノ」  そう言ってこほこほ咳き込まれ、俺は眉を寄せてしまう。  最近咳き込んでる人をよく見かける。  チンピラは気管支に痰が絡むようなぜろぜろした咳だったのに対し、名無しの権兵衛の方は普通に季節の変わり目の風邪っぽい感じだ。経験則的にこちらはそれほど心配はいらないように思うけれど、やはり気掛かりだ。  咳をしている人を見るのはあまり得意ではない。  昔、世話になった人が似たような症状に苦しんでいるのをよく見かけたから。 「風邪を拗らせると大変だよ」 「それって経験談?」 「僕は割と強い身体なので……」  「油断してっと痛い目見んぞ〜?」と脅されるが、構わずポケットから風邪薬を取り出し、それを名無しの権兵衛の手と徳利の間に捩じ込むように渡した。 「いつも持ってんの?」 「ええ。あなたのような方にお渡しするために、ね」 「気障(キザ)うぜ〜」  憎まれ口を叩くのを聞いていたら、遠くの方からざっと芝生を踏みしめる音が聞こえた。  桜の傘から顔を出す。  さっき見送ったばかりの校舎の影からメロが手を振って現れ、その後ろを月ヶ瀬が歩いていた。 「おーい! リョウ、連れてきたよ〜!」 「良いね、ちょうど見頃だ」  「そうですね」と微笑みつつ、一度また枝垂れ桜をくぐって幹の分かれ目を見上げる。  しかしそこには誰もいない。根本に、空の徳利がころんと落ちているだけだ。 「どうかした?」 「……いえ。なんでもありません」  月ヶ瀬の問いに首を振り、レジャーシートやら何やらを持ち寄って花見準備に興じるメロを手伝う。  それから四半刻ほど団子を食べつつ桜見をして、ひとまず解散となった。
/301ページ

最初のコメントを投稿しよう!

403人が本棚に入れています
本棚に追加