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やや遅い花見を終え、肌寒さを感じる夕方と夜の隙間の頃。俺は約束通りメロと食堂に行った。
甘いものばかりを味わった舌をもってしても、噂のデザートは確かに美味しかった。
桜の塩漬けをあしらった三層のゼリーである。初めは薄桜色を透かして視覚的にも楽しく、次にさっぱりとしたミルクを挟み、最後は濃厚なムースという手の込んだものだった。添えられた熱い煎茶との相性も抜群だ。
そんな高級ゼリーよりも、ぷるりと可愛い生菓子を前にしてめろめろになったメロの蕩けそうな顔の方が印象に残ったのは、俺が食事というものにそこまでの興味を持てないからだろう。
他の生徒はメロみたいに喜んでいた。まだ五時にもならないのに席が殆ど埋まっていて驚いたものだ。
いつも満席のときは後ろ髪も引かれずに喫茶店へ回れ右していたが、もしかするとそういうときはこういった催しを行っていたのかもしれない。外部生だからとはいえ、こういった当たり前に行われる楽しみを知らないで何回乗りそびれたかと思うと残念でならない。
リツは知っているだろうか。
早めの夕食の席にいなかった幼馴染のことを考えながら、風紀室へ足を進める。
彼は俺と違って成り上がりとはいえ裕福だ。あまり気にしないかもしれないけれど、食いしん坊だから悔しがっている可能性はある。今度誘ってみようか。
久方ぶりに箸のすすんだ食事を思い出しつつ夜道を歩く。
一月前よりも日が落ちるのが遅いのが嬉しくて、校舎ではなくその周りを迂回するルートを選んだ。
明かりは少ないが、部活動の声が響いていて恐怖は感じられない。今は野球部のエリアだ。網が張られているのでボールが飛んでくる心配は無用である。
夜の短い夏場はよくここを通って夜空を見上げた。合理的な考えとは矛盾しているかもしれないが、人気の少ない場所の方が落ち着く。用がないときはあまり話しかけられたくないし、笑顔だって得意なわけではない。たくさん練習しただけで。
胸ポケットの白に銀の万年筆に指先で触れながら角を曲がると、遠くから何かが転がってきた。グラウンドを囲うように連なった電灯では光源が遠くてよく見えない。
そのまま靴先にぶつかり、跳ね返る。テニスボールだった。おそらく硬式。
次々にボールがこちらに転がり、何個かは俺の後ろのフェンスの隙間を通り抜けそうになっている。
それらを拾い上げて、ブレザーを受け皿代わりにして集めた。生地の表面があっという間に土塗れになっていく。爪に泥が入った。これは今日の風呂が大変になったな、と嘆きを飲み込んで次のボールを追う。
やがて遠くから誰かが叫びながら走ってきた。青いユニホームが反射でちらついた。
「すみませーん! ボールがー!」
「大丈夫! 拾った!」
「ありがとうございまーす!!」
彼も途中途中でボールを拾いながらだったので、こちらに来るまで時間が掛かった。俺も周りのボールを全てブレザーに乗せて彼の元へ向かう。
身長差と顔の稚さからして後輩のようだ。彼は俺の顔を見て慌てて立ち上がり、その拍子にボールが一個腕の中から零れた。
「あっ、す、すみません……」
「気にしないで。一年生?」
「そうです」
四月下旬には必ずどこかに入部届を提出する必要がある。ユニホームが新しいので入ったばかりかと思われたが、彼のボールを追う様子に不慣れな感じはしなかった。内心で先輩だったらどうしようと思っていたので密かに胸を撫で下ろす。
拾ったボールを自分のブレザーに乗せると、後輩は初めてブレザーの惨状に気づいたらしく、数秒前に輪をかけて慌て始めた。
バイト代で何枚か替えを買ってあるので問題ないのだが、外部生が制服を何枚も持っているのは金銭的に考えておかしいし、でもバイトのことは言えないので「洗えば落ちるから」と誤魔化した。というか一般的な金銭感覚を持っているなんてすごいな。
後輩は物凄い落ち込みようだ。萎れた声で「もうすぐ籠を持った奴が来るはずなんですけど……」と遠くを見て、なかなか現れないそいつに焦りを滲ませる。
しかし腹を立てる様子はなく、「あっ、すみません、人のせいにしたいわけじゃなくて、その……」なんて適切な言葉を探して眉間を皺を寄せるので、つい笑ってしまう。後輩はそれに少しほっとしたようだ。整った顔がへなりと綻ぶ。
一般生徒が見たら胸を抑えて倒れたかもしれない。そのころころ変わる表情に気が緩んで、手の甲が汚れていることも忘れて汗ばんだ額を拭ってしまい、しかも内心でやべェと思った瞬間を後輩にばっちり見られてしまった。
「……えっと、ハンカチ要りますか? いやでも、俺も手が汚れてるから……」
「大丈夫だよ。風紀室で顔洗うから」
彼は自分の汚れた袖を見ながら「そ、そうですか」と引き下がる。
物珍しそうな顔を隠しもせず遠目に論評したり、過剰に甘い視線を向けたりするのが大半だったので、こういう新入生もいるのかと少し驚いた。妙に恐縮しているところは学園生らしいけれど。
たぶん俺が関わろうとしないだけで、他にも彼のように素直で普通な人はたくさんいるのだろう。そう思うと心強い気もする。だが、あくまで気分の話だ。学園の本質は変わっていない。
「あ、来ました」
遠くからチワワっぽい男子が籠を提げて走ってくる。頭が冷えた。はあはあとわざとらしく息継ぎし、上擦った声で「こぼしちゃってすみません」とプラスティックの籠を差し出す。
俺は何も言わずボールをそこに落とした。後輩はその後に腕から落とす。
目が潤んでいるのは俺達が拾っている間に乾かしたから。頬が火照っているのは急いで走ったからではなく、擦ったり叩いたりして血を巡らせたから。上目遣いは意図的なもので、上ずった声はおそらく緊張で上手く可愛い声色を作れないから。
そんな風に勘繰ってしまうのは俺の性格が悪いからだろうか。
後輩はチワワから籠を自然に受け取り、俺を見上げ、逸らした。今更になってどういう態度を取ればいいのかわからなくなったようだ。どこまでも普通で、それがどこか地元の学校を想起させる。
俺は「じゃあね」と笑って風紀室の方へ歩き出した。
光源が遠くなる。校舎へ入ると既に電灯は落ちており、辺りは暗闇に包まれた。
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