─宵越し

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 脱いだ下足が靴箱の奥にしまってある脱臭目的の炭に当たる。倒れたかどうかを見届けずに扉を閉め、自室に入りブレザーを脱いでハンガーに掛けた。部屋の前である程度は土を払ったが、クリーニングは必須だろう。  箪笥から白いVネックのシャツと黒のボクサーパンツ、それからベッドに脱ぎ捨てた安物のジャージを拾って脱衣所へ向かい、浴室に入る。  脱いだ服は洗濯機を覆うように設置された棚の上に置いた。洗濯は部活との兼ね合いからユウが深夜、俺が早朝と決まった。  寮の風呂は日本の一般的な家庭と同じ様式だ。水と電力に気を遣わなくてもいいという点から毎日新しい湯を貯められるが、その代わり風呂掃除が面倒だ。ユウは基本的にシャワーしか使わないので風呂掃除は俺が担当している。  浴槽に湯を張り、シャワーを浴びる。普段とは順番が逆だ。髪に水分が浸透するのを感じながら、掌でシャンプーを泡立て、地肌を揉むように洗う。  俺は元の髪質があまり良くないので種類の違う製品を使うと一瞬でぼさぼさになる。幸いなことに小学校高学年からは質に合うものが見つかったが、それまでは最悪だった。  肌も同様だ。髪ほど酷くはないものの、乾燥するとすぐ粉をふいてしまう。  全身を洗い終え、浴槽の縁に座ってフリーザーバックに入れたスマートフォンを操作する。明日の予定を確認しているうちに風呂が沸いた。  足先から湯に沈み、座り込む。画面をフリックしてSNSアプリを開き、「tukihi」のワードを検索し、履歴を検めた。新しい部屋の壁に貼り直した防音材が適切に働いているかわからないので、それを確かめたい。  汗ばんだ前髪を掻き上げる。顔が真っ赤になるほどの時間をかけて調べたが、音質や雑音に関する言及は見当たらなかった。取り敢えずは安心していいだろう。  少しだけ頭がくらくらする。よろけながら立ち上がった。ざぱりと湯が大きく波打つ。  速乾の床に足を出そうとしたとき、脱衣所で何か重い物が落ちるような音がした。次いで壁にぶつかる鈍い音も。驚いて片足だけ上がった状態で呆けていると、擦り硝子に人影が透け、そいつがどたばたともがくようにして扉を開けて出て行った。  盗人か変質者か。俺は軽くシャワーを浴びるつもりだったことも忘れ、浴槽から上がって脱衣所に出た。散々だった。画面の割れたスマートフォンがバスマットの上に転がり、開けっ放しの洗濯機からは体育着が垂れ、扉は半開き。  どうやら風呂に入っている俺に気づかず、ユウが洗濯機を回そうとしていたらしい。三面鏡のひとつが開いている。ついでに歯磨きでもしていたのだろう。  ユウとは初対面の夜から何度か話したけれど、いつも逃げ腰でまともな会話が成立しない。  単に話すのが苦手であるという線も考えた。しかし、一度彼が誰かと電話しているところを見かけたとき、彼は早口なくらい流暢に言葉を発し、笑っていた。  もしかすると彼と俺は根本的に合わない性質なのかもしれない。だからといって、別に逃げなくてもいいのに。  毛先から冷たい水が滴り、首筋を伝う。俺はそれを拭って浴室に戻った。  俺とて、ユウの心境を察していないわけではない。  学園二年目の俺がほんの少しの変化で情けなくも睡眠に支障をきたしているのなら、まだたったの一年目で環境に適応出来ていないユウなら尚更、精神的に疲弊していることだろう。  だから学園の重要人物──一般的な学生でいうところのスクールカースト上位者──である俺に対して必要以上に怯えるのも、無理ないことだ。  俺も去年は、同室者をそれとわからない程度に遠ざけようとしていたっけ。腹の中まで踏み込まれると不味いという警戒も強かった。  だけど、彼はそんな俺を見捨てることなく、付かず離れず配慮された距離感で見守ってくれていたのだ。  ならば俺もそうするべきだろう。彼から受けた恩を、後輩に返さなければならない。  俺はふかーく深呼吸して、隣の部屋のドアをノックする。  当たって砕けろなんて言葉を最初に言った奴は本当に砕けたんだろうなァ? どうなんだよ、オイ──などと頭の中で無駄口を叩く暇もなく、部屋のがちゃがちゃした音は途端に鳴り止んだ。暫しの静寂の後に扉がゆっくり開く。  ユウは顔を半分だけ出して、蚊でも鳴いたみたいにか細い声で「な、なな何ですか…………」と言った。 「僕は君に何かしたかな」  前述したのはあくまで感情論。  スクールカーストの上位にいる存在が庇護を約束しているのなら、それに頼った方が生活しやすいのは明白である。内心怯えていようと好意的に振る舞うべく努力するのが通年の編入生の典型例だ。 「エッ、いいいえ、なにも……??」  ユウは心底訳がわからないという顔をしている。俺はこの学園の特色を理解した上で、それでもその目を見つめた。  ユウはこちんと固まってしまった。瞳孔が開いていく。でも頬は赤くならないし、喉仏も動かない。  やはりユウが俺を避けるのは所謂「好き避け」ではないし、だからといって俺を嫌っているのでもなく、ならば性格の不一致かというとそれを結論づけられるほど関わってもいない。  もしかすると、ユウは俺を交流出来る人間だと認識していないのではないだろうか。彼と俺の間にはガラスの壁がある。プラスティックでもいい。  とにかく、彼は俺に触れられないと思っているから、俺に触れられると処理落ちしてしまうのだ。 「そっか。わかった」  俺は「おやすみ」と微笑んで、一歩下がる。ユウは一分近く後になって話が終わったらしいと気づいてドアノブを引いた。残るのは普段通りの閉じられた扉だけだった。  自室に戻った俺はスマートフォンの画面を延々眺めていた。チャットルームは俺と元同室者のもの。メッセージ欄は真っ白で、時折一文字程度を入力しては消すことを繰り返している。  彼はどうやって俺の心を開かせたのだろう。俺は彼に懐いていることを自覚しているし、彼も少なからずそう仕向けたところはあるはずだ。いや、それは俺の視野が狭いからそう思うのだろうか。  彼、伊角椿(いすみつばき)は自分の心を偽らない。きっと俺が彼を慕っているのは俺がそうしたいからだ。ならば俺とユウはいつまでもこのままなのか? 卒業まで?  この学園に気安い場所はそう多くない。  以前は寮部屋ならいくらでも寛げたけれど、同室者は変わってしまった。  今の俺が落ち着けるのは上位風紀室くらいのものだ。  次点で図書室とPC室。前者には図書委員が常駐しているので適度に人の目がついていて安全で、後者は冷暖房設備が薄いので部活動で使われない限り誰も寄りつかないので危険も少ない──が、人目につくところで王子様が居眠り出来るはずもなく。  しいて言うなら屋上や中庭が候補として挙げられるけれど、御倉がいつ豹変するかわからないから注意が必要だ。  昼夜問わず常に襲われる心配をしなければならない辺りが笑える。 「うわっ」  突然画面が変わり、元同室者からの着信を告げる。俺は染み付いた習慣からすぐに電話を取った。
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