春嵐 ─凪のあとに

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 壁に取り付けられた大鏡で身支度を整える。襟足の長いアッシュブルーの髪を櫛で梳かし、第二釦まで留めた襟を直す。寮入りの際の喧嘩を止めたときに少し乱れてしまっていた。F組に不良を放り込む文化は一長一短である。靴紐も解けかけていたので結び直す。  ポケットに櫛をしまっていると、短く切り揃えた爪が目に入った。たまには俺もネイルしてみようかな。黒やら青やらでべったり塗った初心者まるだしの爪で不良を締め上げる自分を想像し、やっぱりやめておこうかと思っているうちに七階に達した。  エレベーターを降りると、廊下では集団になって駄弁っている生徒が見かけられた。ここは二年生の階なので、おそらく夕食までの空いた時間を持て余しているのだろう。  何人かがこちらを振り返り、風紀とみるやそそくさと自室に戻る。  カードキーの部屋番号を探し、目的の扉の前で一旦深呼吸した。頼むから優しいガキであれと信じもしない神に祈って鍵を開ける。  テレビの音声が玄関に漏れ聞こえてきた。中には既に新入生がいるようだ。メロディーに合わせて歓声が上がる。誰かのライブ映像らしい。  邪魔しないようにそっとリビングルームに入ると、新しい同室者が目にも止まらぬ速さでリモコンを手に取って電源を落とした。挙動不審な動きに驚いていたら彼がこちらを向き、一秒後に「アェッ!?」という謎の奇声を上げる。  よくわからないがライブは一人で観たいようだ。同感である。  俺も早く済ませたいので扉を閉めた。 「こんばんは。君が同室の新入生かい?」  極めて穏やかに問いかけると、彼は机に頭を打ち付けるような勢いでこくこくと頷いた。どこにでもいる普通の学生という風貌にひとまず安心する。容姿は良すぎても悪すぎても良くないので。 「僕は真城由。これからよろしくね」 「よ、ヨロシク……オネガイシマス…………」  片言だ。なぜか死ぬほど恐縮されている。従順そうで良かったと思うべきだろうか。  混乱しつつも、テレビのリモコンを持ったまま固まっている彼と目線を合わせるようにし膝をつき、首を傾げて「名前は?」と尋ねる。今度は目が泳ぎだした。 「さ、さと、佐藤(さとう)……(ゆう)です……」 「じゃあユウだね。よろしく、ユウ」 「エッ!? なま、……はい…………」  書類で読んだものと同じ名前だ。たまに間違って部屋入りする人がいるので、意図的に入れ替わりでもしない限り間違いはないだろう。  俺はようやく息を吸えたような気分で「事務員の方から話は聞いているね?」と続けた。ユウは二度も三度も頷く。  一体どうして怯えているのだろう。そう思ったとき、視界に鮮烈なピンクがちらついた。テーブルの上だ。それと悟られないように視線を動かす。  そこにあったのはゲームの円盤だった。しかも表紙は明らかに成人向けであろう表情の童顔な男性がこちらを見ているようなアングルを切り取っており、タイトルも濃厚なBL《ボーイズラブ》を匂わせるものだ。緊張が解けない原因はこれだったらしい。  見なかったことにしておくのが先輩の務めか。俺は気を取り直して、ユウに風紀として彼を守る義務があり彼はそれを頼っていい立場であることを再度説明した。反応からしてちゃんと頭に入っているか怪しい。とはいえ一度は話を聞いているはずなので問題はないだろう。  手持ちの付箋に自分の連絡先を書いて、他人には教えないよう厳命した上で渡す。ユウは慌てて自分の番号を口頭で諳んじたが、俺は記憶力が良い方ではないく覚えられそうになかったので、同じように付箋に書き記してポケットに入れた。  最低限の仕事はこれで終わりだ。自分の部屋に爪先を向け、ふと振り返る。  ここには、この学園でたった一人しか知らない事実が眠っている。それに触れられては去年の努力が水泡に帰すだろう。 「くれぐれも、僕の部屋を覗かないこと。いいね?」 「……ハッハイ!!」  ハイしか言わないロボットみてェ。焦点の合っていない瞳から視線を外し、口端だけ上げた笑顔を消した。今度こそ自室に入る。  足元を薄青のライトが照らしている。常夜灯をつけると、その異様な内装が顕になった。  壁は防音素材で埋め尽くされ、元の柄が見えない。四方を本棚に囲まれた机の中央には画面の暗いPCが鎮座している。空いたスペースには小型の冷蔵庫や加湿器などが置かれており、手足を十分に伸ばせるのはベッドのみだ。  薄暗い部屋の中、親衛隊からの貢物を捨てたダンボール箱を跨ぎながらデスクチェアに座り、慣れた動作でスマートフォンを操作する。機材はない。  配信開始ボタンをタップすれば、たちまちカラフルなアイコンが滝のように流れ始めた。 「リスナーの皆さん、こんばんはァ」
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