エピローグ

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エピローグ

 窓の外から蝉の鳴き声が響き渡っている。2011年7月、絶望に沈んだ日本は、自粛モードを少しずつ緩和させながらどうにか日々を超えている。どんな事があっても時間は人々にとって平等だ。 「碧衣」  夏休みになり、僕の部屋に遊びに来ている宙が、テレビを観ながらつぶやいた。 「東京スカイツリー、来年の五月に開業するんだって。一緒に行こうよ」  仕事の資料に目を通していた僕は、地デジ化に伴い慌てて買い替えた薄型テレビに目を向ける。午後の情報番組では、建設中にも何かと報道されてきた世界一高いタワーについての特集が流れていた。  宙の提案に、嫌だよ、と僕は嘆息した。 「人混みの多いところは好きじゃない」 「東京に住んでいるのに?」 「都会に惹かれてここに住んでいるわけじゃないよ」  宙と再会して――表面上では宙と初めて出会ってから、四か月が過ぎていた。 「そもそも五月って、おまえは学校があるだろう」  三月に起こった震災により一時期は登校に困難があったようだが、仙台に住んでいる宙は現在高校二年生だ。しかし、震災とは無関係な理由で以前から宙は不登校気味だったという。  ――海外育ちだからさ、日本のガッコ―に馴染めなくて  この部屋で再会したばかりの頃、宙はぽつりとそう漏らした。  ――生きている理由もよく分からなくて、ガッコ―をサボって図書館で勉強している時に地震がきて……。本棚が倒れてきた時に、死ぬんだって思った。どうせ死ぬなら碧衣に会ってみたいって思って……、そんで、やっぱり死にたくないって思ったんだ  明るく溌溂とした雰囲気の宙には、どこか不穏さが滲んでいた。初めて会った時から僕はそれに気付いていながら、それでも宙は僕とは正反対の人間なんだと決めつけていた。  仙台の図書館で震災に巻き込まれた宙は、気づいた時には十六年前の僕の家にいたという。壮大な重力とエネルギーを受けた不思議な出来事は宙と僕の心に仕舞われたまま、その後の春休みを利用してボランティア活動を経た宙は、四月からはきちんと高校に通うと心に決めたようだ。  そうだね、と僕の言葉に宙が小さく笑う。 「碧衣との約束だもんね」  幻の約三か月間、過去の僕の部屋で物理学関連の本を堪能した宙は、将来には僕と同じ道に進みたいと言う。  高校にきちんと通うという約束とやらを宙は律義に守ろうとしているけれど、僕は無理をしてまで高校に通わなくてもいいと思っている。高校生の頃までは学校の教室が世界のすべてのように思っていた。そこで形成された空間に入り切れない自分に落ち度があるのだと思っていた。  しかし、世界はこんなにも広く、簡単に変化を遂げる。 「碧衣」  リモコンでテレビを消した宙が、仕事資料を手に持ったままの僕に近付いた。 「光格子時計の話を聞かせてよ」  十年ほど前に考案された、より正確な時計の話を宙は気に入っているらしい。  カーペットに座っている僕にぴたりと寄り添う宙に対して、僕は小さく抵抗を示す。 「暑いからこれ以上くっつくな」 「えー、もっとアツアツな事しよーよ」 「おまえ、過去で変な単語を覚えてきただろう」  僕の世代でさえ使わない古い表現を使う宙の横顔を盗み見ながら、僕は今年の三月を思い出す。この部屋で目を覚ました――正確には過去から帰ってきた宙に、僕は縋りつくように泣いたのだった。ごめんとしか言えなかった僕の肩をそっと抱きながら、宙は言った。  ――碧衣、もっと格好よくなったね  僕には似つかわしくない言葉をつぶやきながら笑った宙に、僕はもう一度恋をした。  時代は進んでいる。相変わらず生きにくい世の中だけれど、僕の知らないところで時空も常識も突き動かされているのだろう。 「宙」  資料をローテーブルの上に置きながら、僕は言った。 「おまえの学校が休みの日にでも、東京スカイツリーに行ってみようか」  地球上で宇宙に最も近い場所を想像する。そこでは重力の作用が弱まっているだろうか。変わり続けていく世界で、自分の足で前に進もうとしている宙を、僕は見届けたいと思う。  僕の提案に、宙は顔をくしゃりとさせて笑った。宙の笑顔は簡単に僕の胸を締め付ける。たまらなくなり、僕は僕よりも背の高い宙の肩に頭を預ける。目を閉じて、時間の流れに身を預ける。知り得ない未来でも、宙と僕が時間を分け合える事を願う。  好きだよ、という声が蝉の鳴き声の隙間を通り抜け、優しく部屋に溶けていった。 (完)
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