プロローグ

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プロローグ

 大学構内で一番人気(ひとけ)のない食堂を気に入っている。古くてメニューも少ないが、端に設置されたテレビで世の情勢を確認できるからだ。 「あ、碧衣(アオイ)先生」  携帯電話とテレビを交互に眺めながら遅めの昼食を摂っていると、僕の勤務先である研究室の男子学生達が白衣を着たまま食堂に入り、僕の前に座った。 「先生、いっつもここの席にいるよね」  白衣の襟元からパーカーのフードを出した学生に対して、僕はうどんを啜りながら「テレビが見えやすいから」と答える。すると、他の学生達もわっと僕の返答に食いついた。 「でもここのテレビってアナログでしょ。七月から映らなくなるじゃん」 「新しいテレビ買ってもらえるんじゃねーの」 「こんなしょぼい食堂に地デジのテレビを設置されると思えないんだけど」  自分自身が学生だった頃には同世代の子達の会話がとても耳障りだったのに、今では微笑ましく思う。歳を重ねるという事は、許容できるものが増える事なのかもしれない。  ねえ先生、と理系男子にしてはお洒落な髪型をしている学生が、前のめりになって僕の顔を覗き込んだ。 「先生って、好きな人いるの?」  最近の若い子は男でも綺麗な顔をしているな、なんて感心しながら、僕は質問に答えないまま携帯電話を白衣のポケットに入れ、器を乗せたトレイを持って席を立った。  そうでなくても内気で人見知りの僕が、さらに同性にしか恋をできないというマイノリティーを背負っているせいで、恋愛経験は皆無に等しい。テレビはニュースを終え、ワイドショーコーナーへと移っている。  トレイを返却口に置きながら、ふっと脳裏に映像がよぎっていった。一人っ子の僕が実家の狭い部屋を誰かと共有したことなんてあるはずないのに、ほんのひと時だけ一緒に過ごした男がいた。  どうして今まで忘れていたのだろう。トレイから離れた指先は電気を浴びたようにびりびりと痺れ、水を注がれたように僕はあらゆる情景を飲み込んでいく。 「(ソラ)……」  名前を刻んだ途端、足元から崩れそうになるのをどうにか堪える。胸が締め付けられるように苦しい。呼吸をして酸素を得ても満ち足りないこの感覚は、確かに恋だった。  足元が揺れる。返却口に置いた皿が床に落ち、悲鳴があがった。それは僕の感覚だけの問題ではなく、 「地震だ!」  誰かが叫び、僕は傍にあった柱にしがみついた。
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