美しい眼

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それでも彼は、 現世に有る何よりも美しかった。 美しい眼 緑の葉が生茂る森。 朝の空気は冷たく、湿っている。 神輿籠に乗っている僕はただその世界を見ていた。 薄汚れた白い浴衣は、それでも今まで着ていたどんな物よりも綺麗で。 それが、唯一の心の救いになっていた。 シャン、シャン、と鈴を鳴らし、神輿籠はゆっくり進む。 やがて振動が無くなり、目的地に着いたのがわかった。 降りろ、と村人の声が聞こえ、僕は自主的に降りる。 森の中には不釣り合いな木星建築の前に居た。 神輿籠を担いできた村の男達と同じ様に、僕も正座をし顔を伏せる。 すると、とん、と襖を開ける音がした。 僕は顔を上げる。 そして、その美しい緑の眼とかち合った。 「山神様」 村人達の崇め奉る声を聞き、僕はまた頭を下げる。 「ご希望の、贄で御座います」 村の男に荒く手首を持たれ、その異形の前に晒される。  ウム。 と、低くしゃがれた生き物の声とは思えない音を聞いた。 それは、山神と言う名の存在に合う。 「ヨイ。贄ノ加護ハ払ウ」 サガレ、と冷たい声に村人達は脱兎の如く山を降りていった。 「…贄ヨ」 呼ばれたと思い顔を上げると、その眼に吸い込まれる。 翡翠の中に、虹色の星を散りばめた様な、美しい眼。 それは、神の証の様に思えた。 「中ヘ」 そう、後頭部を長い黒爪の巨大な手で覆われ、僕は支えられながらその神社の中誘われる。 その木造建築の中は、厳かな空気に満たされていた。 床は節まで見えるほどはっきりとした木目で、柱には複雑な花模様が彫られている。 広い部屋の奥に4本の蝋燭に挟まれた祭壇があり、その中心の小さな丸い鏡が、この空間で一番神聖な物体である事は察せた。 「名ハ」 山神は振り向かず問う。 「…有りません。強いて言うなら、皆、忌子と呼びました」 僕は事実を言った。 「…不憫ナ者ダナ」 長い横顔は黒い。ぼさぼさの毛並みは、蝋燭の灯りで不思議な色合いを見せている。 「ナラ、“ヨメ”と呼ボウ」 よめ、と僕は繰り返す。 「美眼、ダ」 その漢字を教わり、僕は大層驚いた。 「そんな高貴な名なんて、」 山神様は大きな指で僕の頭を撫でる。 「オ前ノ眼ハ、美シイ」 そう虹翡翠の眼で見つめられ、僕はぶわりと感情が湧くのを感じた。 そんな事は、生まれて初めて言われた。 その虹翡翠の眼に映る己の眼を見る。 赤と青の異眼を、美しいと言う者が居るとは思わなかった。 僕がぼろぼろと泣き出すと、山神は目を丸くする。 ドウシタ、と問われ、僕は答える事無くただ泣き喚いた。 黒の異形は鋭い爪の手で僕の体を包み、慌てたが何もしなかった。 食われるなら、一思いに食って下さい。 そう言うと、虹翡翠はじっと僕を見つめた。 「我ハ、人ヲ食ワヌ」 しゃがれた声に言われ、え、と漏らす。 「では、何故自分なんかを、」 思わず言ってしまい、しまった、と思った。目の前の強者は機嫌を損ねるのでは。 しかし、その虹翡翠の眼に怒りは見えなかった。 「オ前ノ眼ガ、美シカッタカラ」 慈悲の視線が、赤と青の眼に映る。 「ソノ眼ヲ見テ、惚レタノダ」 目の前の宝石の様な眼を見て、思い出した。 同じ眼の、兎の事を。 村の者に言われ、この森で山菜狩りをした。 それは禁忌だったが、忌み嫌われ奴隷の様な扱いの僕にはその命令を拒む事など許されなかった。 山神様の怒りを買う事に怯えながら、山奥へ入る。 そして、その豊かな自然の中で、あの兎を見つけたのだ。 その眼は、確かに山神様と同じ虹翡翠をしていた。 「まさか、あの時の…」 その辿々しい言葉に、山神は頷く。 あの兎は、山神様だったのだ。 「ダカラ、オ前ヲ娶ッタ」 めとる、と僕は繰り返す。 山神は巨大な手を僕の背中に回し、黒い顔を近づけた。 「美眼」 しゃがれた声は、優しい。 「我ノ嫁ニナレ」 僕は驚愕しかなくて、返事が出来なかった。 山神様はその長いマズルを寄せ、僕の額に口付ける。 答えの代わりに、僕は泪を流した。 「我ガ、怖イカ」 そう問われ、僕は首を横に振る。 嬉しかった。 この眼を美しいと、求めてくださったのが、ただ嬉しかったのだ。 誰もが見下すこんな忌子を好いてくれたのが、嬉しくて。 「僕は、貴方の愛を受けてもいいのですか」 山神は頷き、 その大きな口の先を、僕の唇に落とした。 美しい眼は、僕を欲しいと言った。 だから、 今日から僕は、 虹翡翠の、嫁になった。
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