Petrichor

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Petrichor

 _____これでよかった。  雨の音が思考をかき消す。もうぜんぶどうだっていい。ただもうはやく、ここから。  雨のせいで地上は暗い。空を仰いでも、土砂降りのせいで光一筋も見とめられない。  雨の匂いが心地よくて、目をつむった。空がばちばちと雨を叩きつけてくる。沛然。いま五感で感じるすべてが好ましい。  もう無理だと思った。  今日で、すべてを終わらせる。 「ーーさん!!ねぇ降りて来て!!!」  カンカンカン、と、さびた鉄階段の上を駆ける音と、叫ぶ声。下のほうからもざわざわと声が聞こえてくる。地上にも人が集まっているようだ。  ごめんな。返事、してやれなくて。 「ーーさん!!!」  目を開ける。もう、充分だ。  開いた目の眼窩に、洪水のように雨が入り込んでくる。あまりに疲弊しているせいか、反射で瞼が閉じることもなく、どうしてか痛くもないから、ただ目を開けて、なるがままにする。トイレを流した時みたいに、ぐるぐる、眼球のまわりを水が回る。これは、夢か。  その中に、光を見た。光の中で、あいつが優しく微笑んでいる。それから口パクで何か口にした。  ____おいで。  うれしくて、顔が綻ぶ。 「...いま行く」 「ーーさん!!!!!」  声はもう聞こえなかった。人生という名前の舞台を降りる。意識が暗転し、落ちていく。安らかな気持ちだった。地面にふれる直前、やっと実感する。幕は、下ろされた。
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