水飼理人と真夏の三日日

1/1
前へ
/1ページ
次へ
セミの声が半ばけたたましいほどに鳴り響いていた。 ごう、と強い風が通り過ぎ、一瞬のちに樹々の葉がざわめく。鳴いているセミの名も、揺れる樹々の種類さえも、無知蒙昧な自分は何も知らない。それどころか日々の日付や現在のおおまかな時刻ですら、ポケットの手帳や右腕の時計の表記を鵜呑みにしなければならないような有様だった。自分は茫漠として漂うように生きている。その点に関しては自覚があった。 ぼたり、と汗の雫が地面に落ちた。先ほどから汗がしきりに額や頬を伝う。ハンカチなどという洒落たものは持っていないので、不謹慎とは思いつつ右腕の喪章で汗を拭う。濃い日陰に浸っているとはいえ、あまり長時間立ち尽くしていれば倒れてしまいそうな猛暑日だった。 水飼(みずかい)は皺めいた喪章を指先で整えるような無駄な作業をすると、再び火葬炉の煙突を凝視した。神妙な面持ちでも、慈愛に満ちた表情でもない。ただなにも考えていない、空虚な眸を煙突の先へと向かわせ続ける。悲壮感も使命感もなく、ただ機械的に立ち尽くすのみだった。   煙―― ああ、ようやく燻り始めた。 その瞬間を確認し集中力が途切れたのを機会として、セミの声が水飼の耳になだれこんでくる。いったいなにをそんなに議論しているのか、と問いかけたくなるほどの大きさだ。繁殖のために全存在を賭して鳴き続けていることなど、水飼は当然知る由もなかった。 東山のうだるような猛暑も、けたたましいセミの声も――ここ岡山市だけでなく、東京のような都会においてもそれらは同様の状況らしい。「らしい」と言ったのは、同級生の市岡から以前メールで聞かされたからだ。大学卒業後、市岡は東京で教師を務めている。 「たしか、世田がや区だったな」 周囲に誰もいないことをいいことに独りつぶやいた。ふと、市岡の住む「世田がや区」が、どのような漢字を書くのかが気になった。「ヶ」は入るのか、入らないのか。珍しく知識欲に衝き動かされても、水飼はなんら調べるすべを持っていなかった。スマホなどという今どきのものは、自室に置いてきてしまった。 「局長、」 振り向くと、斎場作業員が小走りに近寄ってくる。たいした距離でもないのに瞬く間に滝汗をかくと、眼を細めて煙突を見上げた。 「あー……、もういいんじゃないでしょうか? 待合入っても。今日三八度越えですよ、熱中症になってしまいますよ?」 「はあ……」 気の抜けたような返事に作業員は若干苛立った。だが相手は曲がりなりにも「お客様」である水飼、ましてや「お得意様」の岡山市中区・福祉局長だ。倒れられてはこちらの責任問題となるし、今後の行政契約にも影響しかねない。市内にはほかにもいくつか斎場があるのだ。 「さ、水もお持ちしますんで、ひとまず待合に入っ……」 誘導しようと軽く肘を掴みかけると、途端に強烈な勢いでばッと振り払う。そうして自身を頑なに守るかのように喪章を掴み、三白眼めいた眼つきで睨んでくる。 いや、子どもか――? 二十代も後半を過ぎているという水飼を呆れかえって見つめる。受付事務の女たちの言うくだらないうわさ話が本当なら、これで岡大の修士も出ているというから驚きだ。若造のくせに入局数年で局長にまで昇りつめたことを考えると、あながち嘘でもないのかもしれない。だがいくら世間知らずなお役所だからといって、学歴だけがものを言うということはないはずだ。福祉局は各行政庁の中でも異色の存在で、奇をてらうような人事を行うと聞いたことはあるが――それを加味しても――出世コースに乗るからには、それなりに仕事もできなくてはならないはずだろう。   有能なのか――? こいつが――? 黙って俯く水飼を、作業員は改めてまじまじと見つめた。 たしかに水飼の提出する書類に不備があったということはないが、実際の働きぶりは窺い知れない。……顔立ちは比較的まとも――いやむしろ整った部類にすら入る。若干陰鬱な雰囲気を纏ってはいるが、スーツさえきちんと着込めばいかにも温室育ちの地方官僚のような出で立ちになるだろう。だが本人はそれをしない。やや緩く黒ネクタイを結び、喪章を右腕に着け、ふらふらと東山に現れる。それが女どもいわく「ミステリアスでいい」ということになるのだろう。 水飼は安定した特権階級の公務員、こちらは市から委託を受けている単なる民間の現場作業員に過ぎない。その差分にも憤りかけたがぐッと堪え、それでは煙を「ご確認」されたら待合にお入りください、と慇懃無礼に言い放つと事務所へと引き返して行った。 水飼は喪章から指先を離すと、――毎回の定例行動――火葬炉の煙突から立ち昇る煙を「確認」した。 水飼の眼には煙が映る。それは現場作業員にはなんの変哲もない煙にしか見えないが、水飼にとっては違う。 男性利用者が焼かれているときは、煙は男性の格好。女性利用者のときは、女性の格好。水飼は煙にヒトの姿を見出していた。 ぽた、と涙が地面に落下した。 セミの声は相変わらず続いている。あのセミたちがなんの「議論」をしているのかを、水飼は知らない。   「この絵は――なにを表しているのでしょうね、」 水飼が話しかけると、巨大な碧いキャンバスを前に佇んでいた後藤が振り返る。 筆が止まって数十分経過しているのを見かねて声をかけたのだが、後藤はいつものようになんら声を発することなく、ただ穏やかに微笑み続ける。そうしてかた、と木机にパレットと筆を静かに置いた。 「……きれいな碧ですね、」 再び描くよう勧めることも、疲れたのなら病室に帰るよう促すこともしない。ただともに味わうように、悠然と全面の碧を二人して眺めた。 ほかの患者たちはとうに自室に引き返している。だだ広い作業療法室には長期入院患者の後藤と、「視察」と称して週に一度ここを訪れる水飼のみが残されていた。 「視察」当初こそ院長や看護師長もしらじらしく構ってくれたものだが、こうも頻繁に来られ、ましてや一年以上と長引いてしまうとさすがに呆れたのか、それぞれの仕事を片付けるべく持ち場で働いている。精神科専門病院の現場は忙しい。それは水飼とて重々承知していた。 十八歳で発症、緊急入院。以来十五年間の入院生活を続けている。症状はとうに寛解し慢性化しているが、身寄りもないため引き取り手もおらず、やむなく入院継続。場面緘黙あり――。水飼が聞かされた後藤の情報はそれだけだ。福祉局局長の職権を濫用すればもっと情報を引き出すこともできるのだろうが、それはしないでおいた。後藤の来歴にはさして興味はない。ただ、死なずにおいてくれれば、生きてさえくれていれば、ほかはどうでもいい。 先週の猛暑日――、またしても一人の利用者を見送ったことを思い出し、水飼は思いがけず再び涙しそうになった。福祉局全体が管轄する利用者は後藤のような慢性化した患者ばかりではない。生活保護、貧困、重度障害児、単身高齢者。そういった諸々のワードで表されるような利用者たちは、ときに呆気なく、情けないほど呆気なく――「亡くなって」しまう。 葬儀の立ち合いは本来ならそれぞれの担当職員に任せるべきなのだろうが、水飼は律儀にすべての利用者の「死」に向かい合ってきた。もう何人ほどになるだろうか――数が苦手なので、十人を超えたあたりから数えるのをやめてしまった。 ぽん、と不意に肩を叩かれ、水飼ははッと我にかえった。 後藤が穏やかな、それでいてこちらを心配するかのような表情を浮かべている。 「ああ……すみません。考えごとをしていて――、…大丈夫です、」  その言葉を聞いて安心したのか、後藤は再びパレットと筆をとり、丁寧に碧を塗りはじめる。その後ろ姿を水飼は茫漠として眺めていた。 スマホの着信音で目を覚ました。 咄嗟に意識が混濁し、ひどく混乱する。 夢――だったのか? あのいつもの、繰り返された光景が――。 だが紛れもなく自室であり、時間も昼過ぎであることを確認すると、どうやら本当に夢を見ていたらしかった。これが「生活夢」というやつか――。 そんなことをつらつら考えながらしつこく続く着信の「鳴り元」をしばらく凝視していたが、あきらめる気配がないことを確認すると観念して出ることにした。 『どうせ今夜暇なんだろ? 駅前に呑みに行こうや』 こちらの都合などお構いなしに、市岡は開口一番そう言い放つ。 そのあといつもの陽気な声でなにかをべらべらとのべつ幕なしに喋っていたが、水飼は途中でうんざりして通話終了ボタンを押した。 しばらくしてメールが届いた。 『切るなよ。一九時に東口の噴水の前に集合な』 市岡は盆休みで帰省していた。 市岡は陽気で快活なためか、子どものころから常に人気者だった。それは教師をしている現在も同様の状況らしく、生徒たちからも慕われているようだ。 そのような男が、なぜ好きこのんで自分のような陰鬱な人間につきまとうのかがよくわからない。わからないが、あえて遠ざけるほどの深刻な理由もないので、仕方なくなすがまま受け容れてきた。が、解せないのは相変わらずだ。 帰省時にしたって、昔ながらの顔なじみに会いたいのであれば、市岡ほど人望のある男ならちょっとSNSのたぐいで声をかければいい。すぐさま当時の同級生たちが集まって、市岡を囲む同窓会など開催できそうなものだ。だがなぜか市岡はそれをしない。気乗りでない水飼を連れまわし、差し向かいで呑むことを好む。 ともすれば、と思う。 その実、市岡も「変わっている」のかもしれない。 陽気で快活、というのはペルソナの一環であり、無意識の奥底では世界に対しどこか違和感を憶えている。だからこそ、逸脱しまともになれなかった自分ごとき人間に共鳴し、心中を分かち合うべくつきまとうのではないか――。 そのような、薄っぺらく陳腐な考えが首をもたげる。これも、学生のときに古典的な――端的に言えば旧めかしい――心理学の講義を聞かされたために相違ない。福祉士をめざす学生ならば心理学は必修だが、そこから派生した最先端の理論には触れる機会がない。否、触れる暇がない。公認心理士をめざす心理学科の学生とちがって、福祉学科の学生は心理学の核となる古典的中心理論を押さえていればそれで充分で、あとは社会福祉の理論学習と実習、フィールドワークに多忙を極めるからだ。   まもなく約束の時間となる。出かけるまえの水飼には習慣があった。コップに水を汲み、自室のポトスに与えるのだ。そうしてふらふらと岡山駅東口の噴水広場へと向かった。 酒を美味そうに呑み干す市岡を呆れて見つめていた。そうして、美味いだの、この一杯を味わうために生きているだの、どこかで聞いたような軽薄なセリフを吐き散らかす。水飼は興ざめしつつ、自分はお決まりのウーロン茶をごくりと飲んだ。呑み代は割り勘だが、呑み放題プランなので酒代自体には特段気を払う必要性はない。適当に呑ませて気分よくし、あとはお帰りいただけばよいだけだ。 市岡が瓶ビールを手酌で注ぐのを一瞥したのち、水飼はおもむろに胸ポケットから手帳を取り出した。 そうして盆入り前日の日付をじッと見つめる。そこにはたしかに病院・視察、と書かれている。 昨日自分は定例どおり、病院への視察に入った。後藤にも会った。碧い絵もいつもどおり描いていた。 とすると、あれはやはり現実――、いや、夢―― 「水飼ってSPとかいないの?」 唐突に思考の波が途絶され、水飼は目が覚めたようになって市岡を見た。うっすら紅くなっている市岡は性懲りもなく、今度は「ハイボール」とかいう酒を呑もうとしている。酒などどれもこれも、すべてアルコールが含まれるただの水だ。選り好みせず、ずっと「ビール」でも呑んでいればそれでいいのに。 「なぜだ?」 「なぜって……おまえ、いちおう福祉局の局長だろう。極右の人間に命を狙われたりしないのか?」 「……、」  水飼は一瞬呆気にとられ、それからおもむろに市岡の思考に思いを馳せた。 おそらくは、福祉は左派であり、左派と敵対するのは右派だ、よって自分は右派に命を狙われる、という支離滅裂な三段論法に基づいた発言だろう。 市岡の「論理」に基づけば、社会福祉協議会の会長も、NPO法人の理事長も、福祉職のトップはすべてが標的にならざるを得なくなる。そのすべてを追うほど、彼等とて暇ではないだろう。しかもなんのために殺す? メリットなど一ミクロンもないのにリスクを冒すほど、彼等も莫迦ではない。 まあ、それも――時間が経過して状況が変われば、そんな悠長なことも言っていられなくなるのかもしれないが――。 「……いまのところは大丈夫だ」 さまざまな思いを込め、ようやくのことでそれだけを返す。市岡は安堵の笑みを浮かべ、またしてもぐびりと「ハイボール」を煽った。友人の身を純粋に案ずるあたり、市岡はひどい酒呑みだが人は良いのかもしれない。 「俺はな」 だん、とジョッキをテーブルに置き、水飼を見据える。 「親友の安全が心配なんだ。護衛もつけず軽率に現場に出かけていくおまえが。いや、役所のお偉いさんってただデスクで椅子にじっと座ってるイメージだからさ」 それはあながち間違いではない。事実、自分が局長に就任する以前の福祉局は旧態然としていた。トップは椅子に根が生えたように動かず、奔走する現場は疲弊しきっていた。そのような状況を変容させたいと漠然と思い改善を進めてきたが、自身が自由に振舞わせてもらっていることも結果としてよい方向に影響している。らしい。副局長の櫛笥から以前そう言われた。 それはともかくとして、自分の身を心配してくれている友人のためにも、なにか有事の際には助けを求められるよう工夫を凝らさねばならない。 「明日からスマホを携帯しようと思う、」 「なんの話だ?」 市岡は怪訝な目つきをしてこちらを見遣る。そうして、水飼が奇怪なことをつぶやくのはいつものことだと思いなおしたのか、残りの「ハイボール」を喉を鳴らしつつ呑み干した。 「しかし――」 「ああ?」 「あのようなコンパクトなかたちをしているということは、きっと日常的に持ち歩くことを前提としているのだろうな」 最早市岡は応答すらしようとせず、店員を呼び寄せるべく奥の厨房をしきりに窺っていた。 自室のドアを後ろ手で閉め、鍵をかける。そうして、碧に拘泥する心理を質問しそびれてしまったな、とふんわりと思った。 市岡は教育学部の出身なので、一連の心理学は履修している。教育学部の課程に詳しくはないが、ともすれば自分より深く探求している可能性は高い。だとすれば、碧い絵を描き続ける後藤の心理に対し、なにかしら見解を示してくれるかもしれないと思ったのだ。 むろん、職業上の守秘義務があるので後藤の名を明かしたり、実際の事例と察せられるような話しぶりをしたりすることは避けるつもりでいた。あくまで一般論として、特定の色を好む心理とはなにか、を聞くつもりであった。 いずれにせよ、聞かなくてよかったのかもしれない。場面緘黙があるとはいえ、後藤の容態はきわめて安定している。解決すべき問題も、引き取り手が見つからない点を除いて、ない。だとすればことさら後藤の心理や無意識といった内面にアプローチすべきではない。引き取り手が見つからないのは環境や状況といった外部の問題であって、後藤に責任はないからだ。 「しかし、気になるなあ」 水飼は独り言をつぶやくと、鞄をそおと床に置き、壁際のこたつ机の前に腰を下ろした。 それなりに給料は振り込まれているにもかかわらず、水飼は学生時代同様、四畳半のアパートに住んでいた。地域の住民のようすを私生活の観点からも見てみたい、という理由で官舎には入らなかった。いちおう就職を機に引っ越しはした。引っ越し直後に新しい住居の様子を見に来た市岡には、なんで学生のときと同じような狭い部屋にしたん? なら引っ越さずに住み続けてればよくね? と言われ、確かにそうだなあとひどく納得したのを記憶している。 おもむろに学部時代のテキストに手を伸ばし、芸術療法のページをぱらぱらとめくった。流し読みした感じでは、芸術療法が利用者にカタルシスをもたらし治療に貢献すること、あるいは支援者の心得として、作品に批評や解釈を加えたりせず、あるがままにともに味わうこと、作品をとおして利用者を改めて尊重すること、そのような趣旨のことが書かれていた。 「やはりそうなんだな」 再び独り言をつぶやき、水飼はテキストを本棚に戻した。後藤が現状において目立った問題もなく、おおむね安定しているということは、少なくとも今の自分の接し方が悪影響を与えているということはないはずだ。だとすれば碧の意味を解明しようとする自分の新しい試みは、いささか無謀とも思える。 これまで同様に接しよう。ともにあの碧を眺め、味わうのだ。 そう決意したところで唐突に睡魔が襲ってきて、水飼は少しだけ 休むつもりで身体を横たえさせた。そうしてそのままぐっすりと眠 りこけてしまった。 気がつくと、後藤がオールを漕ぐ小舟に同乗していた。 「……、」 ぎい、とオールが軋む。磯の香りが鼻腔をくすぐった。この香りは紛れもなく、子どものころから慣れ親しんできた渋川の香りだ。 「後藤さん――、」 後藤はいつもどおり返事をせず、穏やかな笑みを浮かべてオールを曳いた。オールは先端のほうを握っている。オールの動きを受ける支点へと近寄らせれば、指がつぶれてしまうからだ。それは瀬戸内で育った男ならば常識ともいえる知識だった。 後藤もまた自分と同じ岡山育ちであることを改めて認識し、おもむろに辺りを見廻したが違和感を憶えた。渋川の海は、もっと緑がかった碧をしているはずだ。近年の環境汚染を受けて濁りも進んでいる。こんなに透きとおった、美しい碧をしているはずがない。このような碧はまるで、後藤がいつも描く碧に等しい――   はっと顔を上げて振り向いた。すでに海岸線ははるか遠くとなり、ずいぶん沖のほうまで進んでしまっている。 「…後藤さん、浜に帰りましょう。このあたりはサメが出るかもしれない――転覆してしまったら大変だ、」 後藤は視線すら返そうとせず、穏やかに海面を見つめてオールを漕ぎつづける。 「後藤さん、」 立ち上がって急速に歩み寄れば、小舟はバランスを崩して転覆してしまうかもしれない。深い海の水面を漂いつつ、そもそも救命胴衣すら着けていない自分たちの姿が恨めしかった。せめて一着でも舟に装備されていれば、後藤に着せることができるのにそれすらできない。 「後藤さん、帰りましょう。院長も、師長も心配していますよ……あの人たちは少々口うるさいけども、後藤さんの安定を思ってひそかに懸命になっている人たちだ。――ゆっくりと舟を回転させて、浜辺を背にして、オールを曳く今の動きをつづけてください。」 「犬島に帰るんです、」 間髪入れずに後藤が言葉を発した。後藤の声を聞くのははじめてだったので、その言葉が後藤から発せられたのだと理解するまでに数秒を要したほどだ。 「……、」 あまりの出来事に、口を開きかけたが言葉が出ない。眼を見開いていると、後藤が続きを発した。 「私は犬島の出身なんです。代々、犬島に棲みつづけてきました、」 「……、」 「祖父は勤労学生でした。学校に通う傍ら、島の銅精錬所に勤めていたんです。排煙で肺をわるくしてしまって……。結局、銅が暴落して、数年で精錬所は廃業になってしまった。その翌年に祖父は亡くなったそうです」 「……、」 「犬島出身と言いましたが、棲んでいたのは十二歳までです。父が仕事を求めて、ふたりで市内に渡りました。島内だけでは生活できなかったんです。交通誘導員の職に就きました」 「……、」 「ある日、暴走した車にはねられて父は亡くなりました。母もすでに亡かったので、私は旭川の養護施設に預けられてそこから中学に通いました。」 「……、」 「中学卒業後すぐに働いて自立するつもりでいたけども、離島の出身、まして中卒ともなるとどこも雇ってはくれなかった。しかたなく、翌年定時制の高校に編入しました。私が統合失調症を発症したのは卒業して数週の内の出来事だ、」 「……、」 「あなたのような――」  後藤はオールの動きを停め、水飼を見据えた。 「あなたのような人間には、わからない、決して、――福祉局に入局したのも、週に一度『視察』に来るのも、……要は同情のためでしょう? 私たちは見世物じゃない、」 「それは違います、」 ようやくのことでそれだけを発した。静まり返った辺りにさざ波の音が響く。 「僕も、あなたと同じだ――、僕は、」 「……、」 「自閉症なんです」 またしてもスマホの着信音で眼を覚ました。 意識が混濁し、朦朧としたまま時計の文字盤を見遣る。夜十時を過ぎたところだ。夢――だったのか? あの幻想のような光景は、やはり夢だったのか――。 夢の中とはいえ、水飼は自身が秘匿していることを咄嗟に後藤に打ち明けてしまったことを恥じた。このことは市岡にすら言ったことはない。心の奥底へと厳重に仕舞い込んでいた。それなのに、 「……、」 未だしつこく鳴り続けるスマホを、水飼はうんざりした様子で振り返った。盆の中日、そして夜半過ぎ。このような時間帯にお構いなしにかけてくるのは市岡に決まって――、 そう思いつつ発信者の表示を覗き込んだ水飼は、素早い動きでスマホを拾い上げ受信した。     「夜分にお呼び立てして申し訳ございません」   立ち尽くす水飼は茫然と眺め続けており振り返ろうともしない。院長も表情を変えず、病室内へと歩みを進めると水飼の横へ並んだ。 「担当職員の方なんですが――帰省先の山口から急ぎこちらへ向かってらっしゃるそうです。……ああ、それと手術同意書なんですが――署名代理権を授与されたと、副局長ご自身から口頭で伺ったのみですので――こちらとしては改めて局長からサインをいただきたいと思っております。この特例用に書類を作成いたしましたので、後ほど担当看護師に事務室に案内させます。」 水飼は頷いてみせた。 「申し訳ありません。我々の保護が行き届きませんでした」 「いえ……、原因はなんなのですか?」 酸素吸入器と点滴を装着され、昏々と眠り続ける後藤がいた。院長は眼をやや 細め、柔和な表情をつくってみせた。 「……幸いなことに命に別状はありません。骨折などの外科的な問題は、先ほどお話ししたとおり手術も済んでいる。それよりも長く寛解していたのに、あまりに唐突に再発してしまった。急な再発が直接の原因とみなされます」 「……、」 「局長も気になさっている、再発の原因は不明なのです。症状は安定していたし、週に一度の作業療法も彼は淡々とこなしていました。それは局長もよくご存知のことと思いますが……」 「帰ろうとしたのではないでしょうか? 犬島に、」 「え?」 瞬間、病室が静まり返った。しまったと思ったときはすでに遅かった。 「なぜ、後藤さんが犬島出身と知っているんです?」 「…いえ、その――」 「局長、」 抜群のタイミングで、事務手続きを済ませた副局長が入室してきたので水飼は安堵した。 「いかがですか、後藤さんは」 「うん、よく眠っておられる。ひとまず無事で安心したよ。院長、ありがとうございました」 「いえ。ですが、前途はやや困難と言わざるを得ません」 「……、」 その一言でおおかたのことを察し、水飼も副局長も黙りこくった。骨折の治癒後、後藤はどうなるのだろうか。今までのように開放病棟で比較的自由に過ごすというわけにはいかなくなるだろう。自殺企図を起こした患者は、安全面の観点から基本的には閉鎖病棟に移る。週に一度の作業療法は、これまで同様参加させてもらえるのだろうか。現時点では院長もその判断はできないだろう。ただ、後藤のひとまずの回復を願う。その点では三者合致していた。 「今日、東京に帰るのにすまんな、」 「新幹線は一八時台のだから大丈夫だ」 珍しく水飼のほうから誘われて機嫌のよい市岡は、意気揚々と小型船に乗り込んだ。前方の開放席に二人して座り込む。全乗客が乗り込むのを待って、小型船は鷹揚に犬島を目指し始めた。 「なあ――ずっと気になってたんだけど」 「うん?」 「それなに?」 市岡から半笑い気味に指摘され、水飼は自身が抱えているものを覗き込んだ。 「ポトス。観葉植物の一種だ、」 「いや、そういう意味じゃなくてさ……」 市岡はなにか言葉を継ぎかけたが、まあいいや、と独りごちると再び前方を見た。 水飼が自室のポトスを持ち出したのは、ポトスに犬島の景色を見せて、それを後藤の病室に置きたいと思ったからだ。もともと、後藤の病室になにか緑を置こうとは思っていた。閉鎖病棟は日光があまり差さない、ポトスならば適している、そうして、どうせならばポトスに犬島の景色を見せておきたい、といった支離滅裂な三段論法に基づいている。 小型船は大仰な音を立てつつ、順調に犬島を目指し進んでいる。熱い風を浴びつつ、水飼はふと思いついて市岡に大声で話しかけた。 「市岡、」 「おー」 「僕はなぁ、自閉症なんだ」 「おー、知ってたよ」 水飼は眼を見開いて市岡を見た。市岡は海面が跳ね返す光の煌めきに眼を細めつづけている。 「そりゃわかるさぁ、コミュ障だし、変わってるし。まともなヤツは船に観葉植物持ち込んだりしないと思うぜ」 「……、」 「いいんじゃねえの? 水飼は水飼なんだし、」 水飼は磯の香りを胸いっぱいに吸い込むと、ポトスをやや日陰へと置いた。ポトスは耐陰性がある強い植物なだけあって、直射日光には弱い。日陰に置いてなお、葉は光を浴びて海面のように煌めいていた。 犬島にはもう少しで着こうとしていた。 (了)
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加