いざ、さくら

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「俺を呼んでください」  いつもの単調な日坂(ひさか)の物言いは、彼が向けた視線のせいで、熱を帯びたものとして二葉(ふたば)を貫いた。 「孤独に負けそうな時だけでいい。特別な関係になれなくてもいい。ほんの一時だけでも誰かに――先輩に、必要とされたら――」  二葉に、というより、自分自身に向けるかのような口調だった。明瞭に唱えていた彼は、すべてを言い切ることなく薄い唇を結んだ。   もしかして、口説いているの?――二葉が疑うのも無理はない。隣に並ぶ後輩は、頑なに前を向いたままだった。 (横顔も綺麗だな)  ボサボサ髪でも、無精髭を残していても、洒落てはいない黒縁眼鏡をかけていても、彼の端整な面立ちは隠せない。もう少しだけ「空気を読む」という、誰もがなんとなく備え持つ魔法があれば、若い女子たちが群がるはずだ。女子相手にも遠慮なく、ずけずけと思ったままを口にする日坂は、少々煙たい男だった。 「俺を、呼んでください」  言い捨てると、彼は再び歩き始めた。二葉を置き去りに廊下を突き進む日坂を追いかけて、言わなければならない。無理なの。君の気持ちには応えられない。私には決まった人が――。  遠ざかる白衣の背中を無言で見送った自分は卑怯者だと、まるで他人事のように思った。  日坂が見えなくなるまで立ち尽くした時間は、ひどく孤独を浮き彫りにした。  救いを求めるように窓の向こうを見やると、沿道沿いに植えられた桜の木が目に入った。ふくふくと微笑むように揺れる桜は満開を迎えており、薄紅色の花弁を風に散らしていた。 「決まった人、か」  会社の廊下で吐き出した孤独は、重い余韻を心底に落とした。否定するように、一歩を踏み出す。視界にちらつく桜の残像は、永遠などあるはずがないと嘲笑するように、いつまでも消えることはなかった。  ――俺を、呼んでください。  日坂の声を打ち消すように歩行速度を上げていく。誰もいない廊下に、二葉の足音だけがひたひたと冷たく刻まれていった。
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