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しかし過去へ来る前の現実世界でこの後彼は翻訳家の女性と結婚してしまったのだった。鮫島李花が兄に会うフリをして連休明けにリームを訪れた時、彼の左手の薬指には存在感のある銀の指輪がしっかりとはめられていたのだった。
鮫島李花にとってその時の衝撃は計り知れない。この世の終わりかというほどの絶望を受けたのだから。
12階に到着した鮫島李花はエレベーターホールを出てリームのショールームに入ったが、いくら探しても目的の人物はいなかった。
「出張や休暇はとっていないはずだから、少し遅めのお昼休みかしら」
周りに聞こえない位の小さな声でボソボソと呟き、鮫島李花はエレベーターホールへ引き返した。タイミングよく扉の開いた12階から29直通エレベーターに乗り込み急いでレストラン街に向かった。
どこの店もランチタイムから少しズレた時間だったので然程混雑していない。このレストラン街の特徴の1つは、客席から外の見える場所は全てガラス張りになっていることだ。29階から見る都会の景色を最大限に楽しんで欲しいというオーナーの願いからだった。
そんなこのビルに入居している会社は、29階にあるレストラン街を社員食堂として利用できるという特典がある。ランチタイムだけでなくディナータイムまで含む全ての時間帯を半額で食べられるというものだ。
ビルに入っている全てのテナントや会社が鮫島グループに所属しているためもちろん福利厚生の一環である。このご時世、社員を大切にしない会社は生き残れないのだ。
鮫島李花は過去のこの時点で本城幹彦がまだ指輪はしていないことを確認するためにだけここへ来た。その確認が取れないとわざわざ過去へ来た意味がなくなってしまう。
レストラン街を歩いているとガラス張りのレストランの中に同僚と食事をしている本城幹彦をやっと見つけることができた。予約席以外は席を自由に選べることを利用し彼らの斜め左後ろの席に腰を下ろした。
そして鮫島李花はさりげなく本城幹彦の左手を見た。その必死な姿は傍目からはさりげなくではなく、凝視しているようにしか見えなかった。
確認することに必死でガッツリと視線をそこに向けているのに角度が悪くて肝心の左手がよく見えない。
「もっとこっちに手を向けてよ…… よく見えないじゃない」
無意識に非難の声が漏れてしまったことにすら鮫島李花は気づいていない。
そしてまさか鮫島李花の粘着質な行動を監視している者がいるなどとは、彼女は決して気付くことは無かった。
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