TAKE 50 堕落

1/1
1163人が本棚に入れています
本棚に追加
/78ページ

TAKE 50 堕落

 昨夜、僕は享祐の部屋に泊まってしまった。打ち上げの興奮や酔いもあって、いつも以上に燃え上がったからなんだけど、少し恥ずかしい。 「珈琲飲むか?」  目が覚めると、僕はベッドに一人。リビングの方から、香しい珈琲の香りがしてた。 「うん」  おずおずと寝室を出ると、キッチンに享祐の姿が。上半身裸のままで、逞しい胸筋が眩しかった。  二人でモーニング珈琲なんて、歌にもあったような。だけど、こんなにも幸せな気分だなんて、僕は知らなかったよ。おはようのキスは珈琲の香りがした。 『伊織さん、オーディションの結果が出ましたっ』  部屋に戻ってすぐ、東さんから電話が来た。例の最終審査まで残ったヤツだ。 「それで、それでどうだったの?」  焦ってスマホを耳にこすり付けてる僕に、東さんは勿体ぶってこほんと咳を一つした。 「東さんっつ!」  少し語気を荒げると、スマホの向こうで笑い声が。 『もちろん、合格ですよ。おめでとうございますっ』  ま、マジで……。 「や、やった……。東さん、ホントだよね? 嘘ついてないよね。また何かの勘違いとか……」 『本当ですよ。もう、そんなドジしませんから。これから事務所に行きますので、一緒に行きましょう。三十分後にエントランスのロビーで』 「あ、うん。了解ですっ」  僕は慌ててシャワーを浴び、支度した。ちょっと見た目のいいジャケットにテーパードパンツを穿き、三十分後には、一階に降りることができた。  ――――あ、そうだ。享祐に連絡しなきゃ。  僕はスマホの個人認証を解除し、履歴を呼び出す。俯いて作業をしていたその時。 「あの……三條伊織さん、ですよね」 「は……い」  エレベーターホールにはマンションの住人以外は入れない。東さんは僕の部屋のパスワードを知ってるから入れるけれど。ということは、住人の誰かだろうか。  目の前には、記者とかレポーターではなく、普通の格好をした女性がいた。  白いブラウスに紺色のカーディガン、花柄の膝丈スカート。仕事に行くというより、オフのお出かけスタイルだ。 「なにか……」  何だろう。長いストレートの黒髪が綺麗で日本人形のよう。美人と言えなくもないけれど、化粧っ気がないので年齢がわからない。20代……かな。  彼女が口を開こうとした時、誰かがエレベーターから降りて来た。そのまま通り過ぎるのを見送ってるのは、聞かれたらマズイことでも言うつもりなんだろうか。  ――――でも……どっかで見たことがあるような……。  僕はスマホを片手に持ったまま、記憶の中を探る。 「あ、もしかして……」  何度かこのマンションの周りで見たことがあった。そうだ。雑誌記者とかがたむろしてたころ。 「あなたは、越前享祐を堕落させている」 「え……」  さっきとは全く違う声色が、薄い唇から放たれた。ホラー映画に登場するような、低く恨みがこもったような、機械的な声。睨みつける双眸に背筋がひゅっと鳴った。 「私はずっと我慢してたんだっ。なのに、続編だと? ふざけんな」 「待って、落ち着いてください。あの……っ」  混乱する僕の目に、彼女が腹の辺りに置かれた手が映った。それは暖色系のライトを反射して鈍く光ってる。 「あ、やめっ!」  エントランスに東さんが入ってくるのが見えた。 「東さんっ!」 「ぎゃあああっああっ」  断末魔のような声がロビーに響く。その声は、僕が発するべきじゃないのかと、馬鹿なことを考えた。 「うそ……」  すぐ目の下に、ストレートの黒髪があった。そして、強烈な痛みが……。 「伊織さんっ!!」  東さんの見たこともないような顔がちらりと目に入った。そんなに大きく見開いたら、目玉が落ちちゃうよ……。  僕が覚えているのは、そこまでだった。
/78ページ

最初のコメントを投稿しよう!