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幕間 その8
青木からの電話を受け、享祐は愕然とした。大抵のスキャンダルなんてガセもいいとこだ。
恋愛なんかあり得ないし、薬や事故なども身に覚えのない生活をしている。だけど……。
――――俺としたことが……迂闊にもほどがある。
撮られたのは、相手がもし女優なら完全アウトのシーンだ。だがそれを、男同士だからセーフと言ってしまうことに違和感を覚えていた。
芸能界に入って初めての本気の恋。何よりも、伊織に対して申し訳ない。
『バスローブ姿のままホイホイ行くなんてらしくないわね。ま、親しさが却って仇になったのかしら』
電話口ではたっぷり嫌味を言われた。しかし、一っ言も返せない。
『先方の事務所には謝罪しておくから……。越前君も自分のやることわかってるわよね?』
ドラマに悪影響はないだろう、むしろ関心を持ってもらえたかもと青木女史は言ったが、俳優越前享祐としてはよろしくない。そんな印象を享祐は受けた。
「わかってる。面倒掛けてすまん」
青木はこの時、この記事が事実なのかとか、享祐の気持ちはとか、一切聞かなかった。
大人として扱っているというより、そんなことには関心がない。自分で判断しろと言われているように感じた。
それを有難いと思うか、無言の圧力と思うか。享祐は後者だった。
――――それでも、俺は後戻りするつもりはない。
この恋を手放すのは絶対に嫌だ。伊織も同じ気持ちのはずだ。多分……そうであって欲しい。
「どうした? 落ち着け、なんでもないんだ」
享祐はすぐに伊織に電話をかける。案の定、狼狽えた様子の伊織が出た。胸が締め付けられる。だが、自分が落ち着かなければ。
『僕たち、しばらく会わないほうがいいのかな』
電話口で戸惑いながら尋ねる伊織。声が震えているのが伝わる。興奮からではないこともわかってた。
どうして答えてやれば良かったのか。もっと言葉を選んでやりたかった。
翌日の現場で、享祐はまた伊織に驚かされた。元気そうに振舞ってはいたが、視線は泳いで自信を失っている様が見て取れた。
青木もなんで追い詰めた言い方するのか。憮然として享祐は救いの手を差し伸べた。
監督は何故か上機嫌だ。ドラマには追い風だとのたまいやがる。
確かに今節、このデリケートな問題を否定的に論じるのは危険だ。心の内でどう考えているかは別にして、公に非難を口にする輩はもはやいないだろう。
――――まさか、これ監督が仕組んだんじゃないだろうな。
視聴者数が好調と言っても、監督からしてみれば物足りないのかも。そこでこんな起爆剤を考えたのでは。
――――そんな茶番、溶けたら逆風が凄いことになるっての、わかってるんだろうな。
しかし、そんな疑念を吹き飛ばすような伊織の演技だった。
「出てけ、出てけっ!」
激しく泣き叫びながら享祐の体を突き放す。まるで駿矢が乗り移ったように、感情を爆発させている。
大粒の涙がとめどくなく頬を這って行く。圧倒されながら、胸が張り裂けそうになる。もし、台本になかったとしても、享祐は抱きしめただろう。
腕の中で暴れる伊織を全力で受け止めた。
――――ごめん、本当にごめん……大丈夫だから、俺は、おまえを離さないから。
そう念じながら抱きしめた。
第八話の撮影を終えた後、享祐はしばらく『最初で最後のボーイズラブ』の現場から離れることになっていた。
映画の撮影が入っていたのだ。十日間はこちらの仕事にかかりきりになる。青木はいいタイミングだとでも思っているのかご機嫌だ。それが無性に癪に障った。
『おやすみ』
伊織とは、毎晩ホテルの部屋からスマホで連絡を取り合った。
小さな枠の中に閉じ込められた愛しい人。すぐにもそこから取り出して、触れたかった。桃色に透き通る唇や艶々の頬、綺麗な二重瞼にかたどられた大きな目。
最終日を迎えるころ、享祐の忍耐は切れていた。我慢の限界。この日の撮影が終わったら、真っすぐにマンションへ向かい、伊織の部屋へ行こう。そう決めていた。
事務所の対応のお陰で、記者に付きまとわれることがなくなっていた。
SNSでも、『駿矢と相馬はマジ(現実世界)でも付き合っていると妄想する』みたいなハッシュタグが賑わい、みんなが楽しんで勝手な思いを書き込んでる。そういうのもドラマとしてはプラスになっているのだ。
――――驚くかな。昨夜の電話でも、何も言ってなかった。きっと、聞きたかっただろうに。
その様子がいじらしく、愛おしい。夕方の高速道路をひた走るスポーツカー。享祐は逸る心を抑えハンドルを握っていた。
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