幕間 その13

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幕間 その13

 血の気が引いた。エレベーターホールに降りてすぐ、享祐が目の当たりにしたのは、文字通りの修羅場だった。  伊織との甘い一夜を過ごした朝、幸福な気だるさに身を委ねていた。そこに着信音が鳴った。  ――――伊織からだ。どうしたんだろう。 「伊織? どうした?」  画面をスワイプして耳に当てるが、期待した声が聞こえてこない。ぼそぼそと話し声が聞こえてくるが、何を言ってるのかわからない。 「おい、伊織!?」  返事はない。代わりに聞きなれた音がした。エレベーターのドアが開く音だ。 『あ、もしかして……』  伊織の声。やはり誰かと話しているようだ。まだ帰ってから1時間も経っていない。マンションのエントランスだと予想できた。  ――――何か嫌な予感がする。  享祐はスマホを耳に当てたまま、部屋の外に出た。その時……。 『あなたは越前享祐を堕落させている』  凄みを利かせたとでも言うのか、呪いをふんだんに込めた声が聞こえてきた。息を呑む間もなく、耳をつんざく怒声。 「伊織っ!」  大きな音がして、そのまま通話は途絶えてしまった。享祐は顔面蒼白のまま階下へと急いだ。  仰向けに倒れている伊織の下腹部が真っ赤に染まっている。 「伊織っ!」  享祐は自分の来ているTシャツを脱ぎ、血に塗れた下腹部を直接抑えた。気絶しているのか、呼びかけても伊織は反応しない。だが、確実に息をしているのはわかった。 「東さん、これはいったい」  すぐそばにいたマネージャーの東はスマホを握りしめ、真夏のように汗だくだ。ドアの向こうには管理人なのか住人なのか数人が立っていて、その中にへたり込んだ女性が見えた。 ――――あいつか。伊織を刺したのは。 「越前さん、危ないですから部屋へ戻ってください。すぐに救急車が来ます」 「冗談じゃない。戻れるかっ」  刺された箇所を抑え、享祐は伊織を抱きかかえる。救急車のサイレンが鳴るまでの時間は、覚めない悪夢のように長く感じた。 『あんなのでも信じちゃう子はいるのよね』  手術中、病院の廊下で享祐は青木の言葉を思い出していた。『越前君には怪我させない』とも。  それでは、伊織には手を出す可能性を、あの女は気付いていたのか?  ――――なんてことだ。これで、伊織にもしものことがあったら……。  手術の前、医師はとても冷静だった。でも、耳障りのいいことは言わない。連中は常に最悪のことを想定している。  ――――それでも、心配はございません。と言って欲しかった。  享祐はこの日の仕事を全てキャンセルした。青木もさすがに文句を言わなかった。  病院にはマネージャーの東以外にも、伊織の事務所社長やお偉方も駆けつけていた。そして、警察も。 「越前さん、ここでは目立ちますから」  事務所の人間が声をかけてきたが、享祐は無視を貫いた。この場を離れるものか。それにこの事件は、自分の責任でもある。  そう思うと、享祐は胸の中がナイフで抉られるほどの痛みを感じた。それでも、伊織に現実として起こった痛みに比べれば蚊に刺された程度だろう。 「手術は成功です。思った以上に軽傷でしたよ。術後大人しくしてれば回復も早いでしょう」  ようやく担当医から正しい現状を伝えられたのは、事件から三時間が立った正午過ぎだった。 「ああ……良かった」  享祐は廊下に置かれた椅子に、脱力のまま崩れ落ちた。
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