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――それから数時間後。
バイトを終えて家路についた晴斗は、自宅アパートの前に立っている男の姿を見てぎょっとした。
その人物は晴斗の姿を見つけるなり、口元に薄笑いを浮かべながらこちらに向かって歩いてきた。
「晴斗!」
彼の顔を見た途端、全身の肌が粟立つのを感じた。
「何の用ですか?」
相手に何か言われるより先に晴斗は声を絞り出す。
「どうしても会いたくなってさ。とりあえず中、入れてくれるだろ?」
馴れ馴れしく言いながら康太は晴斗の肩に手を回してくる。なぜこの男が自分の家を知っているのだ。もしかして、いつの間にかつけられていたのだろうか。
「お前さ、ちょっと痩せたんじゃないか? ちゃんと飯食ってるのかよ」
晴斗が無言でいると、男は更に言い連ねてくる。
「あのこと怒ってるんだろ? お前の誕生日だったのに、あんなことして悪かったよ」
「帰ってください」
「お前を裏切ってあんな女と浮気してたなんて最低だよな。でもさ、これからは絶対しない。もっとお前を大切にするよ」
「今更謝られても」
「わかってるんだよ、お前が俺をまだ好きだって」
その言葉に晴斗は困惑する。
勝ち誇ったような笑みを見せられて、晴斗は彼の手を振り払った。踵を返して階段を駆け上がり、すぐに部屋の鍵を取り出してドアを開ける。
だが晴斗が中に入るより先に横から手が伸びてきた。
そのまま腕を掴まれて強引に引き寄せられる。次の瞬間、唇に柔らかいものが押し当てられた。
「っ」
晴斗が動揺した隙に、康太は強引にドアの内側に体をすべり込ませて部屋に上がり込んできた。
「ちょっと、やめてください」
「俺と別れてからどんな生活を送ってるのか気になっていたんだ。まさかこんなとこに住んでいたなんて」
男は勝手に喋り始める。
「俺がいなくて大変だったんじゃないか? これからは俺が面倒を見てやるから安心しろよ」
「結構です。出ていってください」
晴斗はなるべく冷静に告げるが、彼は聞く耳を持たない。
晴斗がちらりと男の後ろへ視線を向けると、そこには礼司が険しい表情を浮かべて立っていた。そんな奴、さっさと追い出せと言わんばかりの表情だ。
(僕だってそうしたいけど)
この男がすぐに帰ってくれれば問題ないのだが、簡単に引き下がってくれそうにない。
「こんなことを言える立場じゃないかもしれないけどさ、俺は今でもお前が好きなんだ」
甘い声で囁きながら、熱っぽい瞳で見つめてくる。
「それにお前だって、俺が忘れられなかったんじゃないか? 普通は元カレが押しかけて来たら、こうやって強引に上がり込まれないように警戒するはずだ。まだ少しは俺を気にしてくれているんだろ」
言い淀む晴斗を見て、康太が微笑んだ。
確かに彼に対して未練があるから、この男を拒絶しきれないのだ。たぶん心のどこかで、また戻って来てほしいという気持ちがあった。
それでも晴斗は冷静に言葉を紡ぐ。
「あなたは同性愛者ではないのでしょう? あの時、そう言っていましたよね」
「あれは、あの女の前だったからさ。ついああ言っちゃったんだよ。本当はすぐにでもお前に電話しようと思っていたんだけど、あいつに邪魔されてさ」
取り繕うようなその説明が、ただの誤魔化しの言葉であるとすぐにわかった。
「つーか、そんなのもうどうでもいいだろ」
「どうでも?」
「もう終わったことなんだし、いつまでも拗ねてないでさ。今からやり直そう」
懲りずに言ってくる男に、かすかに残っていた彼への気持ちが急激に冷めていくのを感じた。
あの時晴斗がどれだけ傷つき、悲しかったのかを彼は理解していない。
(僕にとって、決してどうでもいいことではなかった)
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