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濡れながらあてもなく歩いて行くと、やがて古びた雑居ビルの前に辿り着いた。人のいる気配はなく、明かりもついていない。どうやら廃ビルのようだ。
雨に打たれたまま、物も考えずに非常階段を上がっていく。屋上は意外に広くて、錆び付いた柵で囲まれていた。
晴斗は力尽きるようにして座り込むと、袋から酒を取り出した。一口だけ飲むつもりだったのに、気付いた時には一気に飲み干してしまい、もう一本の缶に手を付けていた。
頭の中でいろいろな感情が渦巻き始める。
家族を失った悲しみ。恋人との別れ。死にたい気持ち。
雨と風が強くなる中、ゆっくりと立ち上がると柵に手を掛けて下を眺めた。遠くまでは見通せないが、それでも街灯のおかげで薄暗い夜道が見える。
(ここから飛び降りたら楽になれるかな?)
強い風が吹き荒れて髪を揺らす。全身が震えるほど寒かったが、不思議と恐怖心はなかった。
晴斗は大きく息を吐き出すと、思い切って柵を乗り越えようとした。
「死ぬのか?」
背後から聞こえた声に動きを止める。
振り向くと、そこに先ほどの少年が立っていた。いつの間に追って来たのか、彼はこちらをじっと見ている。
「うん、そのつもりだよ」
どうして彼がここにいるのだろうと思ったが、酒のせいかあまり頭が働かない。
「なぜ?」
「なぜって、仕方ないじゃないか。僕には生きる理由がないんだから」
「だから、なぜ?」
しつこく質問をされて苛ついてしまう。
「キミには関係ないよ」
そもそも見知らぬ少年にそんなことを話す筋合いもない。
「確かに俺はお前の事情を知らない」
「じゃあ放っておいて」
「でも、死んで欲しくない」
晴斗は言葉を失う。
いきなりそんなこと言われても困る。同情のつもりだろうか、それとも馬鹿にしているのか。どちらにしても余計なお世話だ。
「いい加減にしてよ。僕は疲れてるんだ」
そう言って晴斗は少年を突き飛ばした――つもりだった。
「うわ」
晴斗はそのまま冷たいコンクリートに倒れ込んだ。
何が起きたのかわからない。気のせいか、今少年の体をすり抜けたような気がするのだが。
「おい、平気か?」
少年はしゃがみ込んでこちらを見下ろしてくる。
そういえばこんなにも雨が降っているのに、少年は濡れていないように見える。
「あぁ……飲み過ぎたのか」
晴斗は額を押さえて立ち上がった。頭がくらくらして気持ち悪い。
「そうだな、随分飲んでいたみたいだから」
少年はまるでそこに存在しているかのように、はっきりとした声で語り掛けてくる。けれど晴斗は気にせずにふらつきながら歩き出す。
「どこへ行くんだ?」
「もう帰るよ」
「ああ、そうした方がいい」
少年の声を聞き流しながら、彼はビルの屋上から立ち去ることにした。
自殺なんて馬鹿なことを考えるから変な幻を見る羽目になったのだ。きっと今日は飲み過ぎてしまったに違いない。家に帰ったらさっさと寝よう。明日は休みだし、一日ゆっくりすればいい。
「本当に大丈夫なのか?」
「僕のことは気にしないで」
不愛想に答えると、彼は少し悲しそうな顔になる。その顔を見て晴斗もバツが悪くなった。
「キミは帰らなくていいの? ご両親が心配するよ」
晴斗は少年の顔を覗き込む。
「帰れないと言っただろ」
少年は淡々と答えた。
階段を降りながら空を見上げる。雨はまだ降り続いており、一向に止む気配はない。
「名前を教えて欲しい」
少年が突然そんなことを聞いてきた。
「どうして?」
「知りたいからだ」
「意味がわからないよ」
「俺もだ」
少年は真顔のまま首を傾げる。不思議な子だなと思いつつ、結局答えることにした。
「相沢晴斗だよ」
「はると」
少年は小さく呟くと、なぜか満足げな顔を見せた。
「キミはなんていうの?」
「――礼司」
少年は懐かしむように自分の名前を告げた。
地上へ辿り着く頃には、先ほどよりも雨が強くなっていた。もう全身がびしょ濡れだ。
「一緒に来る?」
何の気なしに晴斗はそう言っていた。
「雨も酷いしさ。このままだと風邪引くよ」
自分でも、幻覚相手に何を言っているのだろうと思う。
そうでなくても知らない人間を部屋に招くなんていつもならあり得ない。けれど今は酔いのせいか、あまり深く考えずに口にしていた。
「いいのか?」
「うん、構わないよ」
そう答えると、少年はほんの少しだけ安堵したような顔になる。
そして二人は雨の中を並んで歩き出した。
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