1 正しい欠陥品

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1 正しい欠陥品

 彼女は僕の住むアパートの部屋の合鍵を持っている。だから帰宅すると彼女が待っていることがよくある。  僕は待つことも待たれることも嫌いだ。それでいて一人でいる孤独にも耐えられない。  それを矛盾とは思わない。ただ僕が欠陥品にすぎないというだけの話だ。正しい欠陥品。僕という存在を形容するなら、その一言ですべて説明され尽くしてしまうだろう。  「おかえり。晩ごはん作っといたよ。たいしたもんじゃないけど」  「ありがとう」  客観的に見れば自分を待ってくれる人がいるというのは幸せなことだ。交際相手のいない若者も結婚しない大人もどんどん増えている。みんな結婚しなくなったのはおそらく経済的な事情のせいもあるが、もっと単純に単に疲れたくないからだろう。僕らは生まれてからずっと家庭や学校という共同生活を否応なく強いられてきた。一人で生きたいという根源的な欲望は愛だの恋だのという美しい欲求を往々にして圧倒する。  田町菜々美は僕と同じ学科に在籍する学生。学年も年齢も同じ。ほとんど話すことはなかったがショートボブにしている髪型から受けるイメージどおりのさわやかな女の子だなと思っていた。菜々美との交際は、入学して三ヶ月ほど経った頃に彼女の方から声をかけられたから。  「同じ学科の男子なら僕以外にもいくらでもいるのに、なんで僕なの?」  「綺羅と話しててさ。歩夢君ってイケメンだし、ほかの男子たちと距離を置いてる感じもクールでいいよねってことになって、ダメ元で告白してみることにしたんだ」  綺羅というのは菜々美の友達の山田綺羅のこと。菜々美より少し背が低く髪型はお団子ヘア。二人とも地味な外見をしているのは共通しているが、菜々美がいつも人の輪の中にいる目立たないタイプだとしたら、綺羅は学級委員としてクラスメートを引っ張るタイプ。綺羅も同じ学科にいる。あとから聞いたが、菜々美と綺羅は高校も同じで、その頃から同じ大学に進学しようと決めていたそうだ。  誰か知らないし興味もないが、綺羅には大学に入学してすぐできた彼氏がいて、菜々美が僕に声をかけたのはそういう焦りもあったのかもしれない。  結局、僕は菜々美の告白に「いいけど」と応じて、交際が始まった。つきあうようになってもう半年。なし崩し的に始まった交際だが、不思議なことにケンカ一つしたこともない。今では学科の学生全員が僕らの交際を知っている。茶化す者はいない。みな温かい目で見守ってくれている。  僕の部屋は男らしく物が少なくさっぱりしている方かなと自分では思っていたが、少し口の悪い菜々美に言わせれば〈物がなさすぎて生活感が乏しく寒々しい部屋〉となる。とはいえ気に入らないわけではなく、ほかの女の気配がまったく感じられない点で合格だとお褒めの言葉をもらったことがある。  菜々美は実家住まいだから僕は彼女の家に行ったことはない。毎日電車で片道三十分使って通学してくるところは正直偉いなと感心している。  菜々美の作ってくれた料理はカレーとポテトサラダ。どちらも彼女の得意料理で、今日のは特にじゃがいもがたっぷりだった。ちなみに今日は違ったが肉じゃがも彼女の得意料理の一つだ。別に僕はじゃがいも料理が大好物というわけではないが、嫌いなわけでもない。せっかく作ってもらってケチをつけるようなことはせずありがたくいただくことにする。  今日は金曜日。菜々美は金曜だけ午後に講義を入れてないから、こうして手料理をこしらえる余裕があるわけだ。  菜々美は小顔でショートカットの茶髪もよく似合っている。ただし美人とは言えない。僕には経験ないが一目惚れというものが世間にはあるらしいが、菜々美相手にそういう気持ちになる男はいないだろう。小学校でも中学でも高校でも担任の教師がなかなか私の顔を覚えてくれなかったと愚痴を言われたことがあるが、言い換えればその程度のありふれた顔立ちだということだ。  「私はモテないよ。告白だって今まで一度もされたことない。男の人と交際したのは歩夢君が初めてなんだ」  付き合い始めた頃、真顔でそう打ち明けられたことがあるが、きっとそのとおりなのだろうと思われた。  でも菜々美は処女ではなかった。初めての交際相手が僕だという言葉に嘘はない。つまり異性との交際経験はないのに性行為の経験はあったということだ。勝手に僕がそう決めつけているわけではない。それも彼女が言ったことだ。  つきあい始めた当初はもちろん、しばらくして僕らが性行為をするようになったあとも、僕以外の男にすでに体を許していたことを菜々美は黙っていた。僕が初めての彼氏だと言うから性行為も僕としたのが最初なのかなと僕も思い込んでいた。ちなみに僕が初めて性行為をした女性は菜々美だ。初めての行為のあとで正直にそう打ち明けると菜々美はうれしいと言い、私もそうだよと照れながら告げたものだ。  それが嘘だったと菜々美が明らかにしたのは一ヶ月前、つきあって五ヶ月になるころ。僕らがセックスするようになって二ヶ月を過ぎる頃だった。  それを打ち明ける前の数週間、菜々美はよく眠れていないようだったし、なんだか様子がおかしかった。今思えばそれを打ち明けることで僕と別れることになるかもしれないと気に病んでいたのだろう。当然それを僕に隠し通すという選択肢も彼女にはあった。それは十分魅力的な選択肢だったが、彼女はその事実が第三者の口から僕の耳に入ることを何より恐れた。  僕は当然の疑問を彼女に投げかけた。  「僕の知り合いに君の初体験の相手がいるわけ?」  「いない。でも私の初体験の相手を知ってる人ならいる」  「それって君の親友の山田さん?」  「そう……」  聞くと初体験の相手を知ってるどころではなかった。その相手を菜々美に紹介したのは山田綺羅だった。  周囲の女子たちが一人また一人と体験を済ませていく中、地味な二人は刺激のない退屈な生活に飽き飽きしていた。進路もとっくに決まっている。二人で同じ大学の推薦入試を秋に受験してすんなりと合格した。四月からは県内の大学に自宅から通う。通学時間が長くなること以外生活に大きな違いはないはずだ。通学時間が長くなるからアルバイトもしなくていい、必要な金は全部こっちで出すからと親も言ってくれている。  高校の卒業式を控えたある日、綺羅はたまたまSNSで知り合った経験豊富そうな大学生相手に処女を捨てることにしたと菜々美に話した。大学生とは一度会うだけでその後は二度と会わないと約束していた。実際彼は飛行機を使わなければここまで来られないほど遠くに住んでるからどこかで偶然会ってしまうこともないという。菜々美は驚いたが自分だけ取り残されるのは嫌で私にも紹介してほしいと綺羅にお願いした。  卒業式三日前のことだった。綺羅が彼と会った一週間後、彼はまた飛行機に乗ってこの街にやってきてホテルで菜々美を抱いた。顔は今一つだったが背の高い男でよかったと思った。男はSNSで幸原聖也と名乗っていたが、それが本名かどうか確かめようもない。菜々美は初めて男の勃起したものを見た。背が高いからかそれは数ヶ月後に見ることになる僕のものよりもはるかに大きかった。こんなグロテスクなものを体の、それも極めてデリケートな部分に埋め込まれなければならないなんて、女というのはなんて罪深い存在なのだろう、と菜々美の胸中は悲愴感でいっぱいになった。聖也はそれを三十分以上口に含ませ口全体で愛撫することを強要した。それからようやく菜々美の中に挿入した。  菜々美の処女はその日初めて会ったばかりのほとんど何も知らない男によってあっけなく散らされた。予想していた程度の苦痛はあった。それより、初めてなのに突き上げるような強烈な性的快感を得られたのが意外だった。自分の性器の中に初めて男性器を受け入れた瞬間の気持ちを菜々美はまだ覚えていた。それは今まで守ってきた大切なものを喪失したんだという深い悲しみでもなければ、とうとう私も大人になったんだという前向きな感動でもなかった。それまでの長時間に及んだ口に含んでの奉仕のために舌からあごにかけてしびれるほど疲れていたから、これでもう口や舌を使わずに済むという安堵感がすべてだった。ただ彼の性器が大きすぎたせいか彼女が処女だったせいか分からないが、いくら気持ちよくても痛いことは痛くて血も少しにじんだ。何度も痛いと伝えたのにホテルにいた三時間のあいだに彼は五回も挿入し射精した。  一方、僕とのセックスは一度出したらその日はもう終わり。でも菜々美はそれでもよかった。僕の淡白さを物足りなく思うこともあるが、いつも自分を尊重してくれて決して自分を傷つけないという点において僕以上の男がいるとは思えなかったからだ。幸原聖也はセクシーでスリリングな男だったが、僕は癒やしと安心感を与えてくれる。非日常的な刺激を求めるには不足だが恋人として長くつきあうなら僕のように多少退屈でも温厚な男でなければと菜々美は思う。  「本当に馬鹿なことしたと思ってる。別れ際に聞いたら彼の経験人数は百人以上なんだって。彼にとって私は百人のうちの一人にすぎないってこと。しかも最初のセックスの直後、私が処女だったあかしの血を、彼は私のパンツで拭き取って、記念にこれもらっていい? って言ってきたんだよね。いいけどって答えたら、メモ用紙に〈25 20××年2月26日 田町菜々美 18歳 高三〉って書いて、小さなフリーザーバッグの中にメモと血のついたパンツを入れて封をして自分のバッグの中にしまったんだ。〈25〉って何の数字って聞いたら、整理番号で処女をもらった女が私で二十五人目って意味なんだって。今頃、そのときの私のパンツもほかの二十四人の女のパンツといっしょに戦利品の一つとして彼の部屋のどこかにしまってあるか飾ってあるかしてるんだろうね。君と会うまで処女を取っとけばよかったよ。時間を巻き戻す話の映画を見たことがあったけど、私にもそんな能力があればよかったのに」  菜々美の超能力のあるなしの話はこの際どうでもよかったが、彼の話を聞いて正直うらやましく腹立たしかった。何十年生きても一度も性交できない男もたくさんいるのに、まだ大学生のくせにもう百人以上の女性と性交した? しかもその中には菜々美や綺羅のような未経験の女性も少なからず含まれているようだ。この差はなんだ? 幸原聖也にはあって僕やその他大勢にはないもの。しばらくその謎を探ったが、答えは見つからなかった。  打ち明け話の最後にこんなことを言った。  「彼はただセックスの経験が豊富なだけの自分勝手な男だった。彼を知ったことでよかったこともあるとすれば、それは遊び相手でなく交際相手にするなら歩夢君みたいな人間的に魅力のある人がいいんだって再認識できたことかな」  「僕に人間的な魅力はあっても僕とのセックスに魅力はないということ?」  「そうじゃない! 私は君に体を触れられていると愛を感じる。彼とのセックスは刺激的でめくるめくような快感を私に与えたけど、彼は絶対にそれだけは私に与えることはできないんだ!」  菜々美は自分に酔っているみたいに力説する。愛とはやはりただの錯覚にすぎないのだろうか? 僕は彼女を愛したことなどないのに彼女は僕との行為に愛を感じるという。利歩への僕の愛も錯覚なのかもしれないという考えを即座に打ち消して、僕はもう一つの疑問を口にした。  「君は山田さんとケンカでもしたの?」  「なんで?」  「だって君は自分の初めての相手が僕じゃなかったことを山田さんの口から漏れることを恐れたんだよね。つまりケンカした腹いせに彼女が僕に告げ口するかもしれないから、そうなるよりはと思って自分から打ち明けることにしたんでしょ?」  菜々美は一転して饒舌だった口を閉じて、窓の外の灰色っぽい景色をチラッと見た。十二月の曇り空は人の善意を拒否する野良猫のように尖って見える。  「私たちはなぜか決まって毎年冬から春のあいだにこの世の終わりみたいな大ゲンカをする。いつもささいな理由で私が手をつけられないほど怒り出すことが発端で、結局いつも綺羅の方から手を差し伸べて仲直りする。去年もそうだった。きっと今年もそうなるって信じてる」  そうだろうなと思った。高校からの親友といっても聞いた限り二人の関係は対等ではない。綺羅が初体験すると聞いて、私もしたいと菜々美が言い出したことがその証明だ。違うのは髪型と髪の色くらいのもので、服のコーディネートから食べ物、一日の行動まで、菜々美は綺羅のすべてに合わせようとしてきた。いやむしろ依存していると言った方が正しいかもしれない。菜々美は今は僕にも依存しているが、かつては綺羅一人に依存する一方、綺羅はそれほど菜々美に執着しない。それを不満に思う菜々美は、当然の帰結としてときに理不尽な怒りを綺羅にぶつけることになった。  冷静に二人を比べれば、菜々美より綺羅の方が人間的によほど魅力的だ。菜々美には自分というものがない。誰かといっしょにいなければ不安。誰かに合わせていなければ不安。その誰かが自分から離れていくのも不安。依存しているくせに信じきってはいないからいつか裏切られるのではないかと、それも不安。  菜々美は分かっているだろうか? 自分の秘密を綺羅が僕にバラすことを恐れて、自ら秘密を僕に打ち明けたが、その秘密は菜々美一人の秘密ではない。菜々美の初めての相手は綺羅の初めての相手でもあるのだから、菜々美は綺羅の秘密を僕にバラしたのだ。菜々美は綺羅を裏切ったのだ。  「私を許してくれる?」  菜々美はそう言うが、僕が菜々美の何を許せばいいのだろう? 菜々美の行動は極めて軽率で浅はかすぎるとは思うが、あくまで僕と出会う前の話だ。  「許すよ」  僕は菜々美の期待通りの返事を返した。菜々美の表情が花が咲いたように明るくなった。言葉一つで機嫌がよくなり、僕への愛が深まるなら僕はいくらでも美しい言葉たちを君に贈るよ。  その夜、菜々美は積極的に僕を求め、僕に奉仕した。自分の不始末を許してくれた僕への感謝のしるしなのか、自分の体を武器にして僕の気持ちをつなぎとめようとしているのか、僕への贖罪のつもりか、秘密をカミングアウトしたことで彼女の気持ちが高ぶって異常な興奮状態になっていたためか。おそらくその全部だ。  でもそのとき僕には性欲がまったくなかった。性欲なんてないのに射精して萎えるたびに性器をいじり回されて無理やり勃起させられた。食べたくないのに食え食えと強制されている嫌な気分だった。僕には菜々美の言う〈めくるめくような快感〉を彼女に与えるだけの男性としての機能も技術もなかった。あるのは錯覚の愛だけ。菜々美はずっと切なげな声を上げていたが本心とは思えなかった。僕は彼女を利歩だと思おうとした。でも彼女の顔も声もそして彼女のする積極的なセックスのどれも僕の中の利歩のイメージからひどく外れていた。結合部分に目をやると彼女の下腹部には僕よりも濃い陰毛がアマゾンの密林のようにそこにあった。すべてが苦痛でしかなかった。  その夜、彼女が終電に間に合うように僕の部屋を出るまでに僕は六回も射精させられた。六回という数字にはおそらく意味があって、初体験の男より多い回数僕を受け入れたかったのだろう。それはいいが、安全な日だから大丈夫だと避妊すらさせてもらえなかった。  いくら謝ったって、わがままで一人よがりなのは相変わらずだった。いや、彼女がどれだけ愚かでも自分勝手でも知ったことではない。  もし菜々美が妊娠して女の子を身ごもったらどうするのかと行為中にもかかわらず僕は気が気ではなかった。  処女じゃない? つきあってもいないよく知らない男に処女を捧げた? 時間を巻き戻してなかったことにしたい?  どこまでも何も見えてない女だ。君が処女かどうかなんて今君を抱いている僕はこれっぽっちもこだわっていないのに。強がりでもなんでもない。僕が菜々美の処女にも過去の男にも興味ないのは、もちろん僕が彼女を愛していないからだ。なんなら、僕とつきあいながらほかの男と浮気したってかまわない。  もう何十回と性交しているのに菜々美はまだ気づかない。菜々美の裸を見ても、お互い服を脱いで抱き合っても、そして自分の彼女の生々しい初体験の話を聞いている最中も、僕の性器がピクリとも勃起していないことに。手や口を使って性器を愛撫されて初めて僕の体は性交可能になる。  菜々美は初めて性交したとき挿入の前に何十分も幸原聖也のそれを口に含ませられた。だから、セックスには決められた手順があって、はじめに女が男の性器を愛撫するものだと思い込んでいる。その思い込みのおかげで僕は菜々美と性交することができているわけだ。だから、彼女の処女を奪った幸原聖也に対して実は大いに感謝しているのだ。  おそらく菜々美が幸原聖也の性器を初めて口に含んだとき、彼の性器は愛撫の必要もないほどすでに隆々と勃起していたはずだ。もちろん三十分は必要ないが僕の性器は二、三分愛撫されたあとでなければ勃起しない。性交可能なほどの状態にするにはさらに愛撫を続けなければならない。僕が菜々美に性的魅力と興奮を感じないのはきっとこれからも変わらない。彼女がこの事実にいつまでも気づかないでいることを願うのみだ。
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