エピローグⅢ ※佐野利歩視点

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エピローグⅢ ※佐野利歩視点

 社員の人たちがバタバタしている。受付の方で何かあったようだ。どうせ萌がまた何かしでかしたんだろう。でも大丈夫。萌はドジだけど、彼女のドジに悪気はない。どんな失敗も笑い話で済まされる。今回もそうだろう。  結婚式は私の高校卒業後に挙げる。純白のウエディングドレスはそのときまでお預け。今回はあくまで入籍祝いのパーティー。私が今着ているのは水色のドレス。なんて名前のドレスかも知らない。これを選んだのは歩夢さんだけど、きっと彼も知らないのだと思う。彼が気に入ってくれるのなら、私はそれでいい。パーティー中盤にお色直しの時間があって、次はピンク色のドレスに着替える。そっちは私が選んだ。  付き添いで私のそばにいてくれるのはお義母さん。付き添いをお願いしたら最初拒絶された。私に至らない点があるからかと思ったらそうではなかった。  「新婦の控室に私なんかがいるのは縁起が悪いから。きっとパーティー参加自体を自粛すべきなんだと思う」  歩夢さんがお義母さんと同居を始めて何ヶ月か後、お義母さんがかつて不倫していたと歩夢さんから教えられてびっくりした。お義母さんと不倫相手は結婚前からのつきあいで、不倫相手の男が歩夢さんたちに復讐されて自殺するまでの三十年間、お義母さんの心と体はその男の支配下にあったという。それを聞いたとき、私はまだ十歳。歩夢さんのこともまだ〈先生〉と呼んでいた。  「それで先生は許したの?」  「母さんは決して許されないことをした。でもそんな母さんに対して僕らはもっと許されないことをした。僕らは母さんの両親を一文無しにして自殺に追い込んだ。さらに僕の実の父は、離婚して他人になった母さんを監禁して五年間も凄惨な暴力を振るい続けた。許されなければならないのは僕らの方だ」  それ以来、歩夢さんの家庭の過去については彼から話してきたら聞くけど、私からは何も聞かないことにしている。  家事は主にお義母さんが、歩夢さんが緑さんに生ませた美和と心美の育児は主に私が担った。だんだん双子が成長し手がかからなくなると、お義母さんに教えてもらって家事の分担を増やしてもらった。料理の味はどうしてもお義母さんにかなわないから、それ以外の水仕事などをやらせてもらっている。  内向的なお義母さんにはずっと友達がいなかったそうだ。私が十三歳になって歩夢さんと婚約したのを機に、東京で働く彼の新居で彼とお義母さんとの同居生活を始めた。ちょうどその頃、遠縁の親戚の古賀樹理さんという女性が東京旅行のついでにわが家に一泊していった。数日前からお義母さんは落ち着かない様子だった。  樹理さんはお義母さんの部屋で一晩語り明かしたようだ。樹理さんは帰りがけ歩夢さんに「和解したから」と告げた。  「というか、私と夏海って被害者友の会の会員同士って感じだよね。不倫を知ったときは殺しちゃおうかなって思ったものだけど、今なら一番の親友になれそうな気がする」  実際、その日以降、お義母さんと樹理さんは一緒に旅行に出かけたりするようになった。去年の夏はヨーロッパを周遊し、今年の夏も二人でオーロラを見にカナダまで行く計画を立てている。  私の控室に歩夢さんが顔を出した。いつも凛々しいが白いタキシード姿が彼の大人らしさをさらに引き立てている。彼は昨年四月から昭和建設東京本社で総務課長という重責を担っている。  「何かあったんですか」  「受付にいた部下が倒れてホテルの医務室にいるというから、様子を見てきました」  「じゃあ、その部下の方はこれから病院に?」  「そうするように言ったんだけど、娘を一人にすると何をしでかすか分からないから家に連れて帰りますと強情に主張されて押し切られてしまいました」  「部下の方、娘さんを連れてきてたんですか?」  「勝手に来たらしい。僕が新郎だと知って何か言いたそうだったけど、ずっと父親の手で口を押さえられてて、詳しいことは聞けませんでした」  間違いなく萌だ。もしかして歩夢さんの部下の方が倒れたのも萌のせいだろうか? そうすると、連れてきた私のせいでもある。私は歩夢さんに事情を説明して、後日でいいので部下の方に詫びてほしいとお願いした。歩夢さんはあとで電話しておくよと快諾してくれた。  私たちの会話は二人きりかどうかに関係なく基本的に敬語でやり取りしている。同居を始めた頃、私は歩夢さんへのリスペクトを形で示すために彼とは敬語で話すと決めていてそれを実践していた。一方、歩夢さんは今までどおり私に敬語を使わなかった。お互いの呼び方も歩夢さんが〈利歩〉で、私が〈歩夢さん〉。  「僕らは対等なんだから、利歩も僕に敬語を使うのはやめてほしい」  何度もそう言われたけど私は応じなかった。  「私はそうしたいからそうしてるだけです」  「じゃあ、僕も君に敬語で話すことにします」  それからずっとそれが私たちのスタイル。同居以来五年間ほとんどケンカすることもなく私たちが穏やかに過ごせてきたのは、そんなことも大きな理由になっているのかもしれない。  歩夢さんと話していると、思わぬ人物が控室を訪れた。  「せっかく招待してもらったが、私はパーティーに顔を出さない方がいいと思ったからこちらに来させてもらった」  歩夢さんの前妻であり、美和と心美の実母である古賀緑さん。私が緑さんの身長を追い抜いたのは小六になった頃だった。今では並んで歩けば私の方が母か姉で通用するはずだ。  「さっき美和と心美に会ってきた。私から生まれたとはとても信じられないほど明るく優しい子どもたちに育ててくれて、感謝の言葉もない」  美和と心美は実の母が緑さんであることを知っている。  〈君たちを産んだのは私だが、君たちのママは利歩だ〉  緑さんは二人が物心つく前からそう言い聞かせ、自分のことは〈緑さん〉と呼ばせた。そのおかげで私はスムーズに二人の母親役を担うことができた。感謝しているのは私の方だ。  私の十歳の誕生日の日に行われた五者面談の結果、歩夢さんと緑さんは緑さんの出産後、生まれた子の親権を歩夢さんとした上で速やかに離婚することと決定された。ところが緑さんが身ごもったのは双子だった。緑さんが産んだ子どもは私が母親として責任もって育てようと思っていたけど、まさか双子とは……  驚きはしたけど歩夢さんへの想いは変わらなかった。歩夢さんと双子はセットで切り離せない。歩夢さんと結婚するなら双子の母親にならなければならない。歩夢さんに愛されたいなら、双子にも愛されるように努力しなければならない。  十二月に緑さんは双子の姉妹を出産。美和と心美と名づけられた。翌年一月に歩夢さんと緑さんは離婚。緑さんは萩家の屋敷に戻ったが、別居後も母乳をあげるために頻繁に歩夢さんの自宅に出入りした。私もまだ十歳だったけど、二人を寝かしつけたり、おむつを替えたり、できる範囲で子育てを手伝った。  歩夢さん、彼の実母の夏海さん、緑さん、私、私のお母さん。大勢の人に支えられて、生まれた二人はすくすくと成長した。もともと緑さん似だと思ったけど、成長するにつれてさらに緑さんに似てくるのが少し切ない。ただし実母に似たのは顔つきだけで、身長や体重は同年代女子の平均くらいはある。  二年後の春、歩夢さんと緑さんは大学を卒業した。歩夢さんは養父の守さんが社長を務める昭和建設に入社。東京本社勤務となり、卒業と同時に夏海さんと娘たちを連れて東京の新居で新生活を始めた。  緑さんも上京し、歩夢さんたちの新居の近くでアパートを借りて、そこに住みたいと希望した。  緑さんは自分が生んだ娘たちのそばにいたいだけだ。今さら歩夢さんが緑さんと復縁するなんてありえない。そう思い込もうとしたけど、それでも心がもやもやした。  そのとき私は小六で十二歳。親から離れて暮らすことなどできない。こんなこと相談できる相手もいない。最悪の結末ばかり脳裏に浮かんだ。怖くて淋しくて狂おしくて一人のときはいつも泣いていた。歩夢さんのくれたエンゲージリング、それがなければ私は耐えられなかっただろう。  すると、圧倒的な力を持つ得体の知れない何者かが私の知らないところで暗躍したらしく、緑さんの再婚が突然決まり、大学卒業直後に緑さんはそちらへ旅立っていった。結婚相手は樹理さんの息子の古賀和弥さん。だから緑さんは今、樹理さんの家で夫とともに暮らしている。去年、男の子が誕生した。特に大きな事件を起こしたとは聞いていない。物静かな夫と物静かな生活を送っているそうだ。  「君たちは最初の志を貫き通したわけか。よく分からない人生をよく分からないままに送っている私とは大違いだな」  「でも緑さんも今幸せなんですよね」  「私なんかにはもったいないよくできた夫だ。これで不幸だと言ったらバチが当たる」  「幸せならそれでいいじゃないですか」  「まあそうだな……。新婚の二人を励ましに来たのになぜか励まされてる。おかしいな」  緑さんは私と、そして歩夢さんと固く握手して去っていった。  パーティー開始間際、また違う女性が控室を訪れた。樹理さんの次女の佐野有希さん。歩夢さんのお兄さんと結婚して子どもを三人生んだあと離婚したが、佐野姓を名乗り続け今もシングルマザー。  聡明そうでしかも華がある。いかにも歩夢さんが好きになりそうなタイプ。  歩夢さんと私にそれぞれ花束を渡されておめでとうと言われたけど、私はこの人と今までほとんど接点がなかったから正直戸惑っている。  「歩夢君、久しぶり」  「う、うん、久しぶり……」  どうやら戸惑ってるのは私だけじゃなかったようだ。  「ただお祝いしに来ただけじゃないんだよね?」  「うん、謝ってもらおうと思って」  「僕が君に兄を選べと言ったこと?」  「うーん、似てるけど正確には違う」  というと、話の流れ的には〈私を選ばなかったことを謝れ〉という意味になるけど、結婚披露のパーティーの日にそんな修羅場を見せられるのは嫌だ! というか、歩夢さんと関係があった人って菜々美さんと緑さんだけだと思ってた。それ以外にいなかったと確認していたわけじゃないから嘘をつかれたわけじゃない。でも心がもやもやしてしょうがないんですけど!  「それなら謝らないよ」  歩夢さんがそう答えて私はびっくりしたけど、有希さんはニコニコ笑っている。  「その答えが正解。奥さんを大事にしてね」  「ありがとう」  有希さんも控室から出ていった。さらにもやもやした感情だけを私に残して。  歩夢さんは浮気したわけじゃない。ただ私の知らない過去があっただけだ。必死に自分に言い聞かせる。努めて明るく振る舞ってみせた。  「有希さんって歩夢さんの初恋の人だったんですか?」  「うん。中学でクラスメートでした。僕の片思いだったけど、あとで向こうも僕に片思いしてたと知りました。彼女とは結ばれない運命だったと思うことにしました」  「結ばれない運命?」  「過去の人はみんなそう。僕は君と出会って、初めて運命の人と出会えたんです――利歩さん?」  突然激しく泣き出した私を、あなたは包み込むように優しく抱きしめてくれた。  実は私は嫉妬の塊だった。恋もキスもセックスも、私の初めてはすべてあなたに捧げたのに、あなたの初めてを捧げられた相手はすべて私じゃない。しかも私ではない女の人と結婚して子どもまで産ませている。今さら私はあなたの初めての人になれない。納得ずくだったけどそうあきらめていた。  そうか。  私はあなたにとって初めての運命の人だったのか。初めてあなたの〈初めて〉をもらえた気がする――  「お父さん、お母さん、そろそろ出番だよ!」  美和と心美がドタバタと私たちを呼びに来た。  「いってらっしゃい。楽しんで」  とお義母さん。  パーティーはもう始まっているはずだ。満場の拍手と喝采を浴びるために、私は涙を止めてあなたと並んで控室の外に足を踏み出した。
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