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マスターは無言で飲み物メニューを差し出すと、再びテーブルへと戻って行った。まだ片付けが全然終わってない。かなりのひっ散らかりようだ。今また団体客でも来ようものなら、きっと収拾がつかなくなるだろう。
そんな状況を察した私は、カウンター席の上に『Paul Smith』とブリーフケースを置き去ると、ふぅ......溜め息一つ。トレイ片手に、気付けばマスターと一緒にテーブルを片し始めていたのである。
別に同情とか、人助けとか、そんな立派な心情から始めた行動じゃ無かった。多分、ぽっかりと空いてしまった自分の心を、何でもいいから埋めたかったんだと思う。相手にしてみれば、有りがた迷惑なのかも知れないけどね......
一方、そんな不審とも言える私の行動に対して、マスターの反応はと言うと、これまたかなり不審だった。と言うか絶対に変!
「いやぁ、中々慣れた手付きだ。その食器の重ね方は堅気じゃないな。経験者とお見受けしたが......居酒屋? いや、喫茶店のウェイトレスか?」ですって。しかもニヒルな顔して。
普通なら慌てて『カウンター席でお待ち下さい』とか、『お客様、困ります』とか、百歩譲っても『有り難うございます』だろう。しかもため口だし。でもまぁ、やりたくてやってる訳だから、別に構わないんだけどね。
「ええ......学生時代ずっと喫茶店でバイトしてたもんで」
私は何食わぬ顔してそんな風に答えた。別に嘘は言ってないし。するとマスターはことも有ろうか、更に飛んでも無いことを言い出したのである。
「今のOLなんかより、この仕事の方が向いてるんじゃないか? おっと、気に障ったら申し訳無い。俺は思ったことをそのまま言っちまう質なんでね」
なんて捨てセリフを吐きながら、たまにグラスがひっくり返ると、チッ! なんて私に舌打ちしてくる始末。それ、あたしのせいじゃ無いでしょ?!
なっ、何なの、このマスター? ため口どころか、完全な上から目線じゃない! どっちが客だか店員だか分からなくなってくる。正直、思いっきり気に障った。食器片しが上手いと誉めるのはいいけど『今の仕事は向いて無い』的な発言はさすがに腹が立つ。納得いかないから、シンプルにこう聞き返してみた。
「その根拠は?」
「モノトーンのスーツに、踵が減り切ったパンプス。見て直ぐにOL、しかも営業職だと分かる。あとスーツの襟元のバッジは、風紀に厳しい帝徳商事の社員であることの証。
恋人に振られて、傘も差さずに取り乱してるようじゃ、この会社じゃ成就しないだろう。だからそう言ったまでだ。外れてるか?」
見れば、片手で前髪をたくし上げながら、『してやったり』的な表情を浮かべてる。まじまじと顔を見てやると、鼻筋の通った顔立ちに切れ長の目。
一瞬ドキッとする程に整ってはいるけど、タランチュアって言うのかコブラって言うのか......とにかく『毒』が前面に現れたその表情に私の身体は思わずすくんでしまう。
「む、む、む......」
正直、そんなマスターの猛毒攻撃に、私はぐうの音も出なかった。だって全部当たってるんだから。
それはそうと......私が恋人に振られて取り乱してる? それも悔しい程に当たってるけど、どうしてそんなことが分かるの? 私なりに、心を落ち着かせてから店に入ったつもりよ。
一体なんで?
「唸ってるところを見るとやっぱ図星ってことか......でもなんで自分が振られたことを俺が知ってるか? その答えを聞きたいんだろう。そんなの簡単なことだ。
『Paul Smith』と言えば、男の必須アイテム。しかもリボンが付いてるとなれば、それはプレゼントに他ならない。更に今日はやたらと寒いから、身体の構造上鼻水は出るが、涙は出やしない。さぁ、これで拭いたらどうだ? 綺麗なお顔が台無しだ」
見ればマスターは、ペーパーナプキンを差し出している。ハッと思い、私はスマホ画面をミラーモードにしてみた。すると、
「あっ!」
なんとマスカラが涙で流れ落ち、パンダがビックリ顔してる。私、こんな顔で街歩いてたんだ......はっ、恥ずかしい!
知らぬが仏とは正にこう言う時に使う言葉。慌てて私が化粧直しを始めると、マスターは更なる飛んでも無いミサイル級の話を始めたのである。あっ、有り得ない!
「逆にそんな顔を『琢磨』に見られなくて良かったんじゃ無いか? もっとも、『琢磨』がちゃんと待ち合わせに来てれば、パンダ顔にもならなかったか......おっと、これも余計なことだな。失敬」
た・く・ま ??? !!!
今あなた......何てことを言ったんですか? 私の空耳じゃ無ければ、確か......『琢磨』って言いましたよね?
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