11話・今さら「戻ってこい」と言われましても

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  ◆◇◆◇◆◇  元雇い主の電話から3日後の昼過ぎ。  可波は、指定されたコーヒーショップにいた。  駅前が見下ろせる2階の窓際の席。  数カ月前はほぼ毎日通っていた道を、無感情で眺めていた。 「どうも」  時間より遅れて、グレーのジャケットを着た元雇い主がやってきた。  起業家として成功している彼・安東は、50代半ばだが美容には気を使っている方である。  白髪もこまめに染めているし、目の下のクマとたるみを取る美容整形も受けていると自慢していた。  そして、相変わらずどこか胡散臭かった。  パーマがかかった前髪をかき上げて、安東は可波の向かいの席についた。  それから店員を呼びつけると、メニューのアイスコーヒーを無言で指差した。  店員が離れてから、ようやく可波へと視線を向けた。 「元気だったかい? 改めて、あのときは申し訳なかった。だが、うちにも事情があったことをくんでもらえるとうれしい。それでまた事情が変わって、きみに戻って欲しいと連絡をしたんだが、話を考えてくれたか?」  謝罪そこそこ保身に走る、横柄な態度だった。  しかも仕事中に抜け出して来たのか、何度もスマホで時計を見るという傲慢さも隠そうとしない。  いち大学生に時間を取るのが惜しい。そんな本音が垣間見える。  その姿を見て、可波の心の奥につっかえていた申し訳なさが、スッと消えた。 「ええっと、電話でも言いましたけど、僕、住み込みのバイトを始めたんです」 「それならうちにも部屋は余っている。家がないならこちらに住めばいい」  安東は視線を外に向けると、苦虫を噛み潰したような顔で愚痴り出す。 「きみの後に入った子を妻がクビにして困っているんだよ。家政婦のサービスも使ったが、家事の途中でも時間が来ればすぐに帰ってしまう。それに犬を怖がらない人間となると、なかなか難しくてな」  事情を知っている可波は思わず、「あー」とこぼした。  働いているとき、奥さんが頭を抱えて「夫が愛人の子を雇うかもしれない……」と言っていたけど、おそらくクビにしたのがその子だろう。うまくいくわけがない。  それに時間内で帰るのは労働者の権利だ。  可波が時間外労働をしていたのは大好きなサモエドのハッピーのためであり、それを当然だと思ってもらっても困るのだが。
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