19人が本棚に入れています
本棚に追加
「ハッピーは元気ですか?」
今日、彼がここに来たのは仕事を受けるためではなく、ハッピーの様子を知りたかったからだった。
安東は運ばれてきたアイスコーヒーを一口飲んだあと、ゆっくりと考えるように答えた。
「……そういえば、きみがやめてから元気がないかもしれないな」
「えっ」
試すような目が可波に向けられる。
「きみがうちに住みこめば、ハッピーも喜ぶだろう。きみも急いで帰る必要がないから、今まで以上に家事を頼めるじゃないか?」
安東が初めて嬉しそうな表情を見せた。
経営者は交渉が大事だというのに、余裕がなかったのか、可波には必要ないと思ったのか。相手を不快にする嫌な目が、可波を舐め回すように絡んだ。
「心配しなくていい。急な解雇は申し訳なかったが、きみも若い男じゃないか。妻の不倫を心配した俺の気持ちもわかって欲しい。だが、俺は妻を信じることにしたんだ。もうきみをやめさせるつもりはない」
不倫を可波が知らないと思い、自分に都合のいい話を作り上げる。そのときのドヤ顔は滑稽でしかなかった。
可波は苦笑を漏らさないように微妙な顔で耐え、少しうつむいた。
「僕は大学生なので、安東さんが思っているほど長時間の労働はできませんよ」
「たかが三流大学だろう。掛け持ちできない能力の人間が、社会で通用すると思わない方がいい」
安東はあざけるように鼻で笑う。
「それにきみは親なしだったな。安定した生活が欲しいだろう? ゆくゆく、私の会社に引き上げてもいい」
「それは……」
「なにか勘違いをしていないか」
安東の重く静かな声が、場を支配する。
「経営者から言わせてもらえば、きみには生気を感じられない。そのまま就職活動をして、世の中に必要とされるとは思わないな。そんな人間を、こっちは『雇ってやる』と言っているんだ」
じわりじわりと、可波の弱い部分を絞り上げる。
言い返せずにそのままうつむいていると、安東は「それに……」と挟み、声色を弱々しく変えた。
「ハッピーだってこのままだと保健所行きだぞ。満足に世話ができるものがいないんだからな」
可波は目を見開いた。
その前で、安東のすするアイスコーヒーがみるみる減っていく。
ごとん。と、わずかだけ残してグラスが机に置かれた。
「きみはハッピーを見捨てるつもりか?」
蜘蛛の巣がまとわりつくように、鈍い光を放つ瞳が可波の体をがんじがらめにする。
逃げ出したくても動けない。
捕食者はとうに獲物を捕まえていた。
「黙ってあれを殺すのか?」
それはとどめを刺す一言だった。
最初のコメントを投稿しよう!