11話・今さら「戻ってこい」と言われましても

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「ハッピーは元気ですか?」  今日、彼がここに来たのは仕事を受けるためではなく、ハッピーの様子を知りたかったからだった。  安東は運ばれてきたアイスコーヒーを一口飲んだあと、ゆっくりと考えるように答えた。 「……そういえば、きみがやめてから元気がないかもしれないな」 「えっ」  試すような目が可波に向けられる。 「きみがうちに住みこめば、ハッピーも喜ぶだろう。きみも急いで帰る必要がないから、今まで以上に家事を頼めるじゃないか?」  安東が初めて嬉しそうな表情を見せた。  経営者は交渉が大事だというのに、余裕がなかったのか、可波(元・使用人)には必要ないと思ったのか。相手を不快にする嫌な目が、可波を舐め回すように絡んだ。 「心配しなくていい。急な解雇は申し訳なかったが、きみも若い男じゃないか。妻の不倫を心配した俺の気持ちもわかって欲しい。だが、俺は妻を信じることにしたんだ。もうきみをやめさせるつもりはない」  不倫を可波が知らないと思い、自分に都合のいい話を作り上げる。そのときのドヤ顔は滑稽でしかなかった。  可波は苦笑を漏らさないように微妙な顔で耐え、少しうつむいた。 「僕は大学生なので、安東さんが思っているほど長時間の労働はできませんよ」 「たかが三流大学だろう。掛け持ちできない能力の人間が、社会で通用すると思わない方がいい」  安東はあざけるように鼻で笑う。 「それにきみは親なしだったな。安定した生活が欲しいだろう? ゆくゆく、私の会社に引き上げてもいい」 「それは……」 「なにか勘違いをしていないか」  安東の重く静かな声が、場を支配する。 「経営者から言わせてもらえば、きみには生気を感じられない。そのまま就職活動をして、世の中に必要とされるとは思わないな。そんな人間を、こっちは『雇ってやる』と言っているんだ」  じわりじわりと、可波の弱い部分を絞り上げる。  言い返せずにそのままうつむいていると、安東は「それに……」と挟み、声色を弱々しく変えた。 「ハッピーだってこのままだと保健所行きだぞ。満足に世話ができるものがいないんだからな」  可波は目を見開いた。  その前で、安東のすするアイスコーヒーがみるみる減っていく。  ごとん。と、わずかだけ残してグラスが机に置かれた。 「きみはハッピーを見捨てるつもりか?」  蜘蛛の巣がまとわりつくように、鈍い光を放つ瞳が可波の体をがんじがらめにする。  逃げ出したくても動けない。  捕食者はとうに獲物を捕まえていた。 「黙ってあれ(・・)を殺すのか?」  それはとどめを刺す一言だった。
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