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前日譚―赤い女―
あなたと出会ったのは、雨の日だったわ。
覚えてるかしら?
あの日は傘を忘れて会社の入り口で困り果てていたら、傘を貸してくれたのよ。
こっちに転勤してきたから、あなたは何も知らないかもしれないけどね、私はこの会社でお局様なんて言われているけど、仕事ができるせいで、若い子に妬まれているのよ。
だから、置き傘が盗まれたりするのよね。
あの女たち、男に色目を使ってばかりで脳がないのよ。
ほんと馬鹿な女たちよね、ディスコで男漁りしちゃって。いつバブルが弾けるかわからないのに貯金もせずに、さっさと寿退社でもしてしまえばいいのよ。
寿退社といえば、私もそろそろ子供が欲しいわ……。あなたと私の子供なら、きっと頭も良くて可愛いでしょうね。
あの一軒家だって、わたしたちのマイホームでしょう? なのにどうして、あの女はわたしたちの家で子供をあやしてるの。
早くあの女を追い出しなさいよ、私があなたの妻じゃない! 結婚届も入れておいたんだから判子を押しておくのよ。
今度は破らないでよね!
あの家はわたしがきちんと管理しなくてはいけないのよ、祠はどうしたの! 祠よ! あれがきちんとされないと幸せになれないのよ!!
「なんなのこれ……嫌だわ。雅史が言ってた会社の変な人かしら」
私は郵便ポストに入っていた、茶封筒の中の紙をとりだして悲鳴をあげそうになった。
赤いボールペンで書き殴られた手紙にはところどころ、赤茶色の飛沫が飛んでる。
切手が貼られてないし、住所を書かれてないところを見ると、直接ポストに入れたのかしら?
最近、誰かに見られているような変な視線を感じていたのはこのせい?
この間なんてチャイムがなって玄関まで行ったら、硝子越しに女がぴったり張り付いているのを見たわ。
もう怖くて、居留守を使っちゃったけど……。
「警察に相談したほうがいいかしら? でも、何も被害がなかったら、警察は動いてくれないというし……雅史との痴情のもつれなんて片付けられたらたまったもんじゃないわ」
夫は浮気なんてできるような、器用な人じゃない。あれだけ気味悪がっていたしね。
雅史とは、転勤前の職場で知り合ってそのまま寿退社し、専業主婦になった。長男も生まれて、マイホームも買って幸せだったのに。
真面目で優しいから、お局様が勘違いしちゃったのかしら。
私は家の周囲を見渡すと気持ち悪くなって家に入った。どこかで、あの女に見られているかもしれないと思ったら、本当に気味が悪いわ。
それに雨も降ってきたし……嫌なことを考えるのはやめましょう。
「それにしても、祠ってなによ。ただでさえ金縛りにあったり、幻聴が聞こえるんだから……雅史は疲れてるんだっていうけど」
夜泣きのせいで疲れてるのかしら。
雅史は仕事が忙しくて、育児の協力もなかなか頼めないし……。
あの女が怖いと思ってるから、黒い影をみたり人の気配や悲鳴が聞こえたりするのよ。
きっと気のせいよね。
「んぎゃあ、んぎゃあ」
「あぁ、ごめんね……勇気。ねんねしましょう」
私は勇気をあやすと二階の寝室へと向かった。おむつも変えたしミルクもあげたから、きっと眠たくなったのね。
私も疲れたから、少しお昼寝しようかしら。
勇気を寝かしつけるように布団へ下ろすと、ミシリという、誰かが畳を踏みしめるような音がして、振り向こうとすると首元に何かが絡みついた。
「ぐっっ……」
黒電話のコードが首に巻き付き、白いコートの女の手首が見え、必死に抵抗して女の腹を肘で殴った。
「ひっ、あ、あんた……!」
「雅史は私の夫よ! クソ女、死ね! 祠をどこにやった!! くくくくくやしや、まままま末代までのののののろう。私たちの邪魔をするな!」
白いコートを着た、鬼の形相の女は黒髪をふりみだし、包丁を手に持っていた。途中壊れたラジオのように歪んだ男の声でおかしなことを叫んでいた。
知らないうちにあの女が家に忍び込んでいた……いつからなの?
今日の朝ベランダの鍵が空いてた…昨日の夜からずっと?
夜中じゅう、私たちを見ていたのかしら。
勇気、勇気を……守らなくちゃ。
「や、やめ………!」
白いコートの女は血走った目で馬乗りになると包丁で何度も私の腹を刺した。
女のコートが真っ赤に染まっていく……意識が薄れていく中で、女の両肩に赤茶けた指が八本乗っかるのが見えた。
揺れ動く首元の髪からもぞもぞと何かが蠢いた。
女の髪の間から見えた目は、死ぬことよりも恐ろしい怒りを感じる……。私は祠なんて知らないのよ。何も知らないの。
ごめんなさいゆるして、ごめんなさい。
でも……私をめった刺しにしているこの女も死ぬ。
あはは、かわいそう、あんたもこの家に近づいたから囚われてしまったのよ。
私はおかしくなってニヤリと笑った。
女は玄関の前で立っている。
血塗れのコートを着て、首元にはザックリと刃物で切った跡があり肉が覗いていた。
雨の日には雅史に逢える日、そう思って男が通るたびに見ていた。
コインランドリーが建った後も、ずぶ濡れのまま立ち尽くしている。
背中に巣食う何かが、這い回るのを感じながら。
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