6人が本棚に入れています
本棚に追加
ラーメンを食べ終わった後に店長にお礼を言いたいという客には、ちょっとした共通点がある。ざっくり言うと、ガラが悪いのである。そのため、お礼を言いたいという要件を打ち明けられるまでは、スープに髪の毛が入っているとか床に虫がいるとか、そういった話なのではないかと今井君は背筋を寒くして要件を聞いてから胸をなでおろすのが毎回だった。食べている最中、麺をすする音が少し大きいし、「うまい、うまい」と言いながら食べる漫画のキャラのような人もいた。
ラーメンを食べた後に店長にお礼を言いたいという客たちの秘密に対する今井君の興味はピークに達していたが、何しろ見た目が怖い人が殆どなのと、業務時間中なので店の外まで追いかけることが出来ない。店長の前で「どういうところが美味しいと思ったんですか」と聞くのも気が引ける。店長に落ち込んでほしいわけではない。
もしかして他では食べられない味を店長だけが提供していて熱烈なリピーターが付いているのではないかと思い、直営店や他のフランチャイズ店に足を運んでシンプルなラーメンを注文し食べてみたが、味は変わらなかった。考えてみれば、フランチャイズ店が他のフランチャイズ店では食べられない味をそこまで際立たせていいわけもなく、今井君は自分のバイト先と同じ味のラーメン7杯と引き換えにおよそ五千円を失った。
とても簡単な方法がある。店長に聞けばいいのだ。いつも呼び出されたときに客と何の話をしているのか、初めて会ったお客さんとどんな笑い話があるのか、直接質問すればいいのだ。今井君はそう思っていながら何故か、その方法は後回しにしていた。店長は客のお礼を聞くときだけ「厨房を見ていてくれるか」とわざわざ毎回言うが、お手洗いに行く時や業者とやり取りをする時は、それを計算して調理をしている。厨房を見ていてくれなんていうのは客がお礼を言いたいという時だけなのだ。
そもそも今井君は料理がほとんどできないので厨房を見ていたところで、出来るのは本当に見ていることだけである。そんな理由から今井君は店長がこの話を今井君に聞かせまいとしているのではないかと考えていた。ならば、そっとしけばおけばよいという大人な考えで今井君が自分を納得させることが出来ないことだけが問題だった。
真相解明のチャンスはある日、突然に訪れた。閉店間際の店内、客は一人だけだった。カウンターではなくテーブル席でラーメンをすすっているその客は背筋がピンと伸びて精悍な顔立ちの男性だった。法律上は成人である今井君であったが、こういった本当の大人の顔立ちはいったいどうやって身に着けることが出来るのだろうと常々不思議に思っていた。男はスープをレンゲですくって半分くらいに減らしてからレンゲを置くと、今井君の方を見た。
「閉店間際にごめんなさい。これを作った店長と少しお話をさせていただいてもいいだろうか」
見た目通りのしっかりとした言葉遣いだった。それだけにいつものガラの悪い人たちと同じ依頼がこの人の口から飛び出したことに今井君は驚きもしたが、ラーメンのお礼をしたがっている人がいると、いつものように店長に伝えた。店長は少し戸惑っていたが、今井君にはその理由が分かった。閉店間際で、店長は厨房の片付けに入っていた。沸き立つお湯の音も聞こえない厨房はホールの会話が聞こえるほどに静かだった。店長は、会話が聞かれることを敬遠しているんだろう。それを察して、今井君は先手を打った。
「じゃあ僕は裏から出て帰りますね」
アルバイトの今井君は客と同じ出入口は使わない。ゴミを捨てに行くときと同じ裏口から出勤して、退勤する。店長はそれを聞いて、少し間があってから笑顔になり、「おお、そっか、今日もお疲れ」と言った。今井君は制服から私服に着替えて、裏口のドアを開けた。でも、ドアから出ずにそのまま閉めた。ドアが閉まった音だけがホールにちゃんと聞こえるように。少し経って店長が話を始めて、今井君は裏口の近くのテーブルの影に隠れるように腰をかがめた。
精悍な顔立ちの男性は相変わらず料理が上手いねと店長のことを褒めた。今井君は、やっぱり店長についているリピーターの一人だったのかと思ったが、すぐにその考えは間違いだという事に気づいた。店長が長田さん、と呼ぶその男性は店長が犯した過去の罪について、昔を懐かしむように話し始めた。長田さんの職業は、どうやら看守らしい。今井君は気が動転してしまって、細かい部分の話は聞き逃してしまったが、店長がひどい家庭内暴力を繰り返していた自分の父親から弟を守るために遠い昔に父親を殺してしまったという事だけは理解できた。
最初のコメントを投稿しよう!