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「出所してから、弟さんと連絡は?」と長田さんが質問した。
「いえ、まだです。というか、私からはするつもりないんです。弟を、犯罪者の弟にしてしまったのは私ですから」
「看守の立場でこんなことを言うのは変かもしれないけど、弟さんは恨んでないんじゃないかな」
「それだったら少しは気が楽ですけど、そもそも本音を聞くのが怖くて」
「まあ、急がなくてもいいとは思うけど」
今井君は想像もしてなかった展開に驚きながら、軽率にも店長の秘密を暴こうとした自分が少し恥ずかしくなった。だが、そこで疑問が浮かんだ。そもそも今までのことと今日のことは関連性があるのだろうか。今までに来店してラーメンのお礼を述べた客たちは長田さんとは無関係なんじゃないだろうかと思ったが、その答え合わせはすぐだったし、やっぱり関係があった。
「出所したやつらは食いに来たか、ここ?」
「はい、本当にみんな来てくれます。約束は確かにしましたけど、本当に一人残らず来てくれて少し驚きました」
「バカなやつらだけど、約束はやぶらないからな、あいつらは」
「本当ですね」
店長は元々ラーメン作りの修行をしていたこともあって、刑務所の中で給仕の手伝いをしていたのだという。その腕前がすごかったのと、店長が実の父親を殺してしまうに至るまでの経緯から刑務所内で皆から同情を集めつつ、慕われていた。もう絶対に人前には出れないと決めつけていた店長に出所してからも料理を続けろと言い続けたのは他の受刑者たちだった。そして、出所したら一番に店長のラーメンを食べに行くというのが皆の合言葉になった。
店長は模範囚として刑期も短縮され、出所してからこのラーメン屋を始めた。個人店ではなく、チェーン店のフランチャイズから始めたのは店長の中でまだ吹っ切れない、あまり目立ちたくないという本音があったのだろうと今井君は思った。
腰をずっとかがめているのがきつくなって少し体制を変えようとしたところ、背中にボードのようなものが当たった。机の横にぶら下げてある、今日までに書き込まなければいけなかった来月のシフト表だ。音をたてないようにそれを手でつかむ。
「あのバイトの子とかは、刑務所のこと知ってるのか?」
「言うわけないじゃないですか。重すぎますって」
重すぎるだろうか。店長の過去の事は重すぎて自分には受け止めきれないだろうかと今井君は自問した。そんなことはないんじゃないだろうか。他の受刑者が店長を慕っていたという話は何よりもその人間性によるもので、それは店長として、この店で自分が感じていることと変わらない。長田さんが「聞いたら、辞めちゃうかもしれないしな」と答えたことにも、内心で反発した。
机の上に芯が出したままのペンが置いてある。帰る前にシフト表に出勤可能日を記入しないといけない。でも、音が鳴ってはいけないから、静かに。出勤できる日に単調に〇をつけていく作業をしながら、やっぱり自分は店長の人柄は好きだと思った。こんな話を聞いた後でも、改めて思う。今井君はシフト表の記入を終えると、元の場所にそっと戻した。
長田さんが「じゃあ、そろそろ」と言ったのが聞こえたので、今井君は急いで裏口のドアから外に出た。急ぎながらも、慎重に、静かに。ドアが閉まる寸前、カチャっという音が鳴ってしまった気がしないでもない。
店長には、その音は聞こえていなかった。長田さんを見送る段になって実はもう涙をこらえられなくなっていた。長田さんの同情だけではない優しさには、他の受刑者たちと違う救いがあった。長田さんは颯爽と手を振って、帰っていった。
店長は厨房を通って事務室の方に戻ると、机にかけてあるシフト表がゆらゆらと揺れているのを見つけた。地震か?と思って感覚を研ぎ澄ましたが、現在進行形で泣いている自分の感覚はアテにならなかった。シフト表を手に取って確認する。二人とも記入を済ませているが、いつもより少し〇の数が多い気がする。今井君の行を見ると、来月は火曜日と木曜日にも〇がついていた。
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