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「このラーメンを作った店長を呼んでくれないか」
まただ、と今井君は思った。アルバイトを始めてもう一年半くらいになるが、ラーメンを食べ終わった客が会計かと思いきや店長を呼び出すこの流れは初めてじゃない。今まで何度もあって、途中で数えるのをやめた。
そのたびに店長は満面の笑みを浮かべて、「今井君、ほんの少しだけ厨房を見てくれるかな」と言ってと入れ替わりでお客さんのところに向かう。今井君には何を言っているかまでは聞こえないが、時おり厨房にも響くような笑い声があがる。今井君がそれにつられてホールを覗くと、固い握手を交わしたり、時には抱き合ってお互いの背中を叩いたりした後で、店長が店先まで見送ることが殆どだった。繁盛店ではないので、他に客はいない。
お金を払って、おいしいご飯を食べる。そして、あまりの美味しさに作った人への感謝の意を述べずにいられないというのは素敵なことだ。そんなシーンは数々のドラマや映画のワンシーンとして今井君にも見覚えがあった。だけど、少し違和感がある。何故なら映画でそういうことが起こるのは高級なフレンチやイタリアンであって、今井君が大学生バイトとして働いているこのフランチャイズのラーメンチェーンのような場所ではない。
無粋な真似とは承知の上で、読者の方々に語りかけたい。皆さんが子どもの頃から通っているラーメンチェーンはあるだろうか。あるいは中華料理屋はあるだろうか。もしパッと思いつくなら頭の中でその店に入店してほしい。席に着いたら、シンプルなラーメンを注文してほしい。何故なら店長にお礼を言いたいという彼らが注文するのもシンプルなラーメンだからだ。チャーシューの大盛や味玉のトッピングは必要ない。味玉は半分だけならシンプルなラーメンにも入っているかもしれない。とにかく、ラーメンが来て、食べる。きっと美味しいだろう。だから、あなたは何度も来ている。それでも、食べ終わって店長を呼び出すだろうか。呼び出さない。何故か、それは別問題だからである。チェーン店を馬鹿にしているわけではなく、なんとなくチェーン店とはそういうことをする場所ではないのである。「そのラーメンは作ったというより組み立てただけです」と今井君より若い高校生アルバイトが厨房から出てくる可能性も排除しきれない。
不思議な客達はさておき、今井君はバイト先の店長の人柄が大好きだった。大学二年生から始めた初めてのアルバイトで、他のアルバイトと比べて時給がいいか悪いかという事を冷静に分析することはしたことがないが、とりあえず店長の下で働けることは幸運だと思った。最初はミスも多く、せっかくメモした内容すらままならないで自己嫌悪に陥りそうになった今井君を店長は根気強く指導してくれた。目が線になるような店長の笑顔に何度も救われた。バイトをやめると言ったら、店長の残念そうな顔を見ることになるだろう。そんなことをしてまで、やりたい他のバイトはないというのが今井君の本音だった。それに今井君の他には、今井君が来ていない火曜日とも木曜日だけ出勤している会ったことがないパートのおばさんしかアルバイトはいないし、そのおばさんはたまに急な用事で休むこともあり、そんな時は店長が一人で注文を取り、ラーメンを作る。今井君が辞めたら店長は採用にも労力を割かないといけなくなることを考えると、今井君の責任は重大だ。
今井君は一人っ子だったが、お兄さんが欲しかった。どうしてお姉さんではなくお兄さんなのかと言えば、それは不幸にも生まれてくることが出来なかったお兄さんの存在が大きい。今井君が小学校の高学年になった時、今井君のお母さんはもういいだろうと唐突にその話を打ち明けた。「唐突に」というのはあくまで今井君の記憶であって、お母さんにとっては「ついに」という言葉がしっくりくる。今井君はその日から頭の片隅にお兄さんが生きていたらどんな関係性だったろうとか、どのくらい喧嘩をしただろうといった空想にふけることが多くなった。
中学校に上がり、高校に上がり、大学生にもなれば空想に使う時間は少しずつ減っていった。ハッピーエンドがないこの話を今井君は他人にあまり話さずに生きてきたが、店長にはどうしても打ち明けたいと思った。それは、店長ならどんな話でも優しく包み込んでくれるという期待と、店長との間には労使関係ではなく人間関係を築きたいという今井君の欲求からだった。店長は慰める代わりに自分の弟の話をした。仲はあまり良くなく、今は音信不通になってしまったのだという。店長のような人が自分のお兄さんだったら、きっと思い悩んだ時は何でも相談できて、どんなに最高だろうと今井君は常々思っていたので、弟さんとの不仲には少々驚いた。
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