耳を狩る少女

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「さぁ、こっちへ来るんだ」 闇はまだ冷めやらぬ頃、老人は焼け残った灯台の螺旋階段の骨組みの下へを呼んだ。老人は猟銃を乱暴に提げ、蹲る少女の腕を強引に抱き寄せて瓦礫を進んだ。 「お前と合一すること、それが私の悲願だった。私はお前を、お前を愛している」 少女は赤黒い瓦礫に身体を仰向けに押しつけられ、瘡が剥がれていく音、老人の聲を遠くに聴きながら星の墜落した空を眺めていた。背中が裂けるように痛かった。けれども不思議と声は出なかった。少女は濁流に沈みこんでいくような気持ちになった。外界との繋がりが次々と遮断されていく。そして肺には水銀のようなどろどろした液体が流れこんで来た。それは少女の自分に対する鋭利なアイスピックの輝きを纏った嫌悪の具現でもあったし、Kの自分に対する嫌悪感を想像して生まれたものでもあった。そうして収斂し、工業排水を溜め込んだ暗渠のような心が少女を昏昏とさせた。 「あぁ、チェル、私たちはこの世界では等価だ。私たちが癒合した時、世界は均衡を歪め、私たちを神と崇めるだろう」 老人は怪物が肉を貪るように少女の服を剥ぎとりながら叫んだ。その狂奔に満ちた声は若かった。老人は少女に覆い被さると歓呼を挙げた。右肩から猟銃がだらりと垂れた。少女は曇天のように空を遮る怪物に無抵抗だった。老人の声はみるみる若く、幼くなる。少女は憐憫の眼差しで怪物を仰ぎみた。瘡が剥がれて灯火のようにみえる幼げな腿から、ピンク色のヴァギナが麗しげな無花果の口を開いた。怪物は少女に今日初めて微笑みかけていた。それはまるでクリスマスのプレゼントの梱包を解いた先に念願のゲームを貰ってはしゃぐ子どものようであった。 「チェル、私たちは臆病者だ!」 その刹那だった、雷鳴の銃声が轟き、陰鬱な大気を薙ぎ払いながら怪物の腹を穿ったのは。少女は驚嘆に目を丸くする怪物をただじっと眺めていた。 「ごめんなさい、償いは私がしなければいけないの」 怪物が渓谷の木霊のような呻きをあげながら瓦礫の海に崩れ落ちるなかで、少女は言った。怪物の腹から染みでた生暖かい血液が彼女の白い患者衣に大輪の彼岸花を咲かせた。彼の腹からは煙が立ち上る。 「ごめんなさい、償いは私がしなければいけないの」 少女は余喘を保つ怪物の頭に銃口を向けた。だが、猟銃はそこから動かなかった。まるで飼い主に歯向かうことに拘泥する犬のように、少女がいくらトリガーを引いても弾は発射されなかった。少女は知らなかった、癒合後に少女を殺すために老人が用意した弾は一発だけであった、と。少女は簡単に屠れると想定していた自らの韜晦を恥じた。全く上手に殺せていないじゃないか。それに猟銃に意志があるなんて知らなかった。 「チェル、チェ、、ル、弾はもうない」 老人は立ち上がって冷淡に見つめる青い瞳の少女に囁くように言った。その時、少女は突然今までの感情を洗い流すような新たな感情の誕生をみた。少女は肩をふるりと震わせ、その感情に戸惑いをみせた。老人はぼやける視界のなかで少女が涙するのを認めた。 「すまなかった、私がすべての原因だ、私が悪かった」 少女はか細く叫びながら猟銃を老人に振り下ろした。何度も。何度も。老人の脳漿が飛散し、少女の涙と癒合した。少女は一心不乱に老人の頭を叩き潰すことに専念した。老人はもう何も言わなかった。 少女の頬に生まれた血飛沫と脳漿と涙が合一した湖を暁光が優しくなでたのはそれからほどなくしてからであった。少女は暁光に背を向け、老人を担いで灯台を出発した。少女は丘を降るとき、自らが死ぬところを考えた。私はあるいはごつごつヒノキで捕縛され、あるいは死塁の山に銃殺されるだろう。だが、生命を絶つというのは受け入れ難いようにみえて、その時が来れば享受さえ出来うるのだと少女は想った。 「君は不幸な娘だった」 ごつごつヒノキを歩く傍らKは言った。少女はどす黒く染まった十字架を肩に提げ、泥とKの靴をみながら尋ねた。 「どうして?皆の耳を狩りとったのは私よ?Kの耳も。Kは私を嫌いなんでしょう?嫌って当然のことを私はしてしまったの、だから私は償わなければならないの」 「君は存在だった。そうだろ?だから嫌うもんか。君を生み出したのは僕たちだ。君が耳を狩り、街を破壊するように仕向けたのは僕たちだ。創出の責任を忘れ、僕たちはあらゆる痛苦を君に押しやって満足していた。だから僕たちは君の覚醒を誘引し、ひとり残らず滅ぶことになったんだろうね」 「でも、K。私はただ、」 「わかってるよ。だから言ってるだろう?君のせいじゃないってね。僕たちは世界を司る君と等価ではなかった、けれど等価になろうとし、果ては超越を目論んだ。それはあまりにも重すぎる罪だ。そして僕たちは滅亡という代償を払ったんだ」 「Kはこれからどうするの?」 少女が十字架を棄て、Kのシャツをそっと掴んだ。Kは微笑して少女の頭を撫でた。 「蘇生、かな。この世界を再びやり直すんだ。生命の息吹を取り戻し、翠の大地をこの地に創出するんだ。素敵な救済だと思わないかい?でもさ、」 そう言ってからKは恥ずかしそうに頬を掻いた。 「君の力なしでは成し遂げられないとおもう。何せ、七日間で仕上げないといけないからね」 「私はそんなこと出来ないよ」 「駄目だよ、そんなこと言ったら。君は自分の才能に気がついてないんだ。感情を抑圧して可能性の幅を狭めるのは損だよ。一緒にやろう。君ならきっと出来るさ。生きているかぎりは前を向こうよ、、だから、、協力してくれるかい?」 「うん!」 少女は溢れる笑みを抑えきれずに、花が咲いたように笑いながらKに抱きついた。少女の剥がれた瘡の下からは美しい肌が覗いていた。
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