耳を狩る少女

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その森を少女が怖がる理由は彼女自身にもよくわからなかった。多分夢のせいだと思った。閉塞的な夢のなかで、彼女は停滞するこの森を歩いていた。そしていつものようにごつごつヒノキを歩いていた時だった。沈黙するその森は急に、狼のように咆哮したのだ。少女は囚われていた頃の、彼女を苦しめた怪物たちを想起した。怪物たちは自らを医者だと騙ったが、その眼球は異様に大きく、象の鼻を短く切断したような不気味な突起で息をしていたから、絶対嘘だ。彼らの口は塞がれていた。あるいは無いのかもしれなかった。私が時、画一してその顔立ちをした彼らが、無感情に叫びながら追いかけてきたのだ。少女は泣きながらコンクリートで統御されたその場所から逃げたのだった。そのことが不気味な森の咆哮と繋がった。それは夢のなかではあったが、その記憶はずっと少女の海馬に耽溺したのだった。彼女はあの日々を思い出すたびに虫酸が走った。汗もいっぱい出るし、涙もたくさん流した。もうあそこに戻りたくない。いつかこの森が叛逆して私を捕らえて、あの場所に連れていくかもしれない。怖いことや痛いことをたくさんされるかもしれない。そうした恐怖が彼女の根底に脈ごそごそと根をはっていたのである。ごつごつヒノキは彼女の記憶にまで樹生していたのだ。 恐怖に苛まれながらごつごつヒノキを歩く時、少女は本のこと、そして机に耳を並べることを考えた。彼女は読書家だった。病院にいた頃、親切なお医者さん(彼もまたになってしまった)が読書を勧めてくれたのがきっかけだった。彼は露西亜文学、とりわけドストエフスキーを愛読していた。だから、少女は彼に倣って外国の童話から読むことにした。ドストエフスキーはちょっと難しかったのだ。だが、彼に憧れていた少女は背伸びをしてでもそれを読んでみたいと思った。単純な好奇心もあった。規律に厳格な彼が時折みせる漣のような優しさの源泉は露西亜文学にあるに違いなかったから。難解な字は彼の許へ持って行けば親切に教えてくれた。彼も嬉しかったんだと少女は想った。彼に本のことを尋ねた時は必ず彼は笑顔だったし、優しかったから。だから、彼女は露西亜文学のことや基督(キリスト)教に関してはそこら辺の読書家や、クリスチャンより造詣は深かった。 十歳になってから少女は頻繁に熱にうなされるようになった。自由に外出出来なくなったし、は険しい顔つきになった。薬も食事も不味くなった。少女は入院ばっかりの生活が嫌になった。毎日注射されるし、血もたくさん抜きとられる。その後は精密検査だ。毎日が単調で辛かった。露西亜文学も厭世的な気持ちになってからは読まなくなった。(その頃はそんな言葉は知らなかったけれど、なんとなく曇りの空みたいな感覚だと少女は記憶している。) そんなある日、少女は病院の本棚に薄汚れた一冊の本が隅におしやられて倒れているのを発見した。それは砂漠で行き倒れた旅人みたいに惨めだったけれど、彼女はどこか親近感がわいたから読んでみることにした。日本の小説家の本だった。彼女はその小説家を彼の頭文字をとってKと呼んだりしたから、彼の名字は忘れてしまったけど。とにかく、少女は彼の作品をデビュー作から丁寧に読み進めていくことにしたのだ。Kの作品を読むことで、少女は退嬰的空間で延々と他律を脅迫される自分を忘れることが出来たのだ。 を教えてくれたから、少女はKを恩師だと思っている。時、彼女は胸にまるで愛犬を抱くように彼の本を持っていった。彼の小説は病院では疎まれているようだったから。その小説は少女が時、という事実を、赤黒く遺していた。
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