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岬の灯台はモルタルの肌を持っていた。木製の軋む扉が閉じられた時、少女は胸を撫で下ろし、奥の部屋で眠っている彼女の祖父に
「ただいま」
と、帰宅を知らせるのだった。彼女の声はいつもより幼げで甘かった。外では風が恣意的に吹き荒んでいた。地震の足音みたいな反抗的な振動が壁を揺らした。時計はすました顔で無感情に時間を進めた。彼女が来てから空はいつも曇天で、鴎たちは鳴かなかった。そして彼女は母親をよく知らなかったし、誰かに甘えるということもよくわからなかった。
収穫した耳を丁寧に洗い、ついでに手も洗った。洋服を捲し上げるのは、たまに瘡が剥がれたりするから嫌いだったが、水が服に跳ねて不快な思いをするほうがもっと嫌だった。
赤黒い血が蛇口の水と癒合して混濁の渦をつくって排水溝に流れていった。まるで底なし沼みたいだった。もし耳を落としたりしたら、、。少女は自分の腕が水氷を砕くような音をたてながら排水溝に吸い込まれていく様子を想像してぶるっと身震いした。きっとこの排水溝はごつごつヒノキを貫いてあの病院に繋がっているのだろう。
手を洗った後は洗った耳を入念に拭かねばならない。少女は自分の部屋で、祖父が灯台守時代に使っていた木組みの椅子に座って、本を読みながら耳を拭くのが好きだった。まるで祖父の膝に乗って、編み物をしているような、そんな安心感があった。少女はKの小説を食器棚(昔は本当に食器棚として使われていた)から引っ張りだして読み出した。
「そうだ、あの娘も連れてこなくちゃ」
少女は乱雑に小説をほっぽり出して玄関に向かった。転けたら瘡が剥がれるから走るなと言われていたけれど、少女はうきうきしていて、半ば走るようにスキップで向かった。籠のなかでその娘は静かに眠っていた。彼女は揺りかごから赤ちゃんをだきかかえるようにして、そのレモネード色の花を拾いあげた。少女はしげしげとその花をみつめた。その娘は少し調子が悪そうにぐったりしていたけれど、花びらの色は(ここでは顔色と言ったほうがいいだろうか)瑞々しいレモネード色を残していた。少女は張り切って花瓶を取りに行った。何せ初めての若々しい来客だったのだから。
少女は花瓶に花をさし、隣で本を読んだ。緑の耳は洗うと芋虫みたいにふやけてしまったので、やむなく捨てることにした。耳朶に穴を開けたせいだろう。そこを突破口にしてだれかがこの耳を緑にしたのだ。どうして捨てられる耳が餃子のほうでないのだろうと、少女は残念に想った。
耳は穴の入口まで丹念に拭かねばならない。けれどやっぱりへしゃげた耳を拭くのは飽き飽きしたから、さっさと冷蔵庫に閉まって、入れ替わりに一番気に入っている耳を取りだしてきた。その耳朶はうっとりするほど靱やかに湾曲していて、どこかの工場で造られたみたいだった。砂浜に落ちている貝殻の螺旋みたいに計画的だった。そしてここにも穴が開いていた。その穴に少女は興味をもった。そこには意志があったからだ。柔らかくもなく硬くもなく、絶妙な意志があるようだった。目を閉じてもそれは感じることができた。どうして女の人は耳に穴を開けるのだろう。少女はまだピアスの存在を知らなかった。
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