貴女の命を私に下さい

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貴女の命を私に下さい

 足元から吹いてきた夜風が、ジャンパーの裾と胸元まで伸びた黒髪を巻き上げる。冷たい風はズボンの裾から服の中にも侵入して、ただでさえ冷えていた身体から、ますます体温を奪っていったのだった。  どこまでも深く、宵闇と一体化した深い谷底。そんな谷底に架かる年季の入った橋の更に上、橋の欄干の上に私は立っていた。  風が目に入って僅かに足を後ろに動かすと、ペンキが剥げて錆だらけになった欄干から微かに軋んだ音が聞こえてきた。 「あっ……!」  足を動かした事で身体が小さく傾ぎ、バランスを崩して後ろに落ちそうになるが、足に力を入れてどうにか踏み止まる。 「……っ!」  普通の人なら、こんな足元が覚束ない欄干の上に立っただけで足が竦んで動けなくなるだろう。  でも、私にはもうここにしか居場所が無かった。 「んっ……!」  一際強い風が谷底から吹いてきて、目から涙が溢れる。  これは風が目に当たって涙が溢れただけ、決して死ぬのが怖い訳じゃない。決して……。  そう自分に言い聞かせて、欄干から谷底に向けて小さく足を踏み出した時だった。 「そこで何をしているんですか?」  声が聞こえてきた方を振り向くと、そこには銀縁の眼鏡をかけたスーツ姿の若い男性がいた。私達の近くにはハザードランプが点滅する黒塗りの軽自動車が停まっていた。誰も乗っていなかったので、おそらくその車の主だろう。  先程から数台の車が行き来していたが、いつの間に近くで停車したのだろうか。全く気づかなかった。 「聞こえませんでしたか? そこで何をしているんですか?」  私が何も答えなかったので、男性は少し苛立ったように声を尖らせた。 「まさか、ここで死のうとしていた訳ではないですよね?」  何も答えずに俯いていると、男性は溜め息を吐いて近づいて来た。  そうして、私の腰に腕を回すと、橋の欄干から下ろしたのだった。 「あっ……」  力強い腕に抗う術もなく、コンクリートの地面に足がついた瞬間、膝が震えてその場に座り込んでしまう。 「命を無駄にするような馬鹿な真似は止めて、早く家に帰りなさい」 「でも、私、ここで死なないと。いま死なないと明日も仕事で……また辛い一日が始まって……。それで……」  話している内に、目からは涙が溢れて止まらなくなる。 そのまま膝を抱えて泣き出した私の側を、胡乱げな顔をした老爺が乗る自転車が通り過ぎて行く。  男性は大きく息を吐いた後、「失礼します」と声を掛けると、私を抱き上げたのだった。   「あの、どこへ……」 「とりあえず、私の車に乗せます。……あそこにいたら、私が不審者に間違われるので」  男性は車の後部座席のドアを開けると、そっと私を座らせる。私が「鞄、橋に置いたまま……」と漏らすと、男性はドアを閉めてどこかに行く。そしてすぐに戻って来ると、「これですか?」と、後部座席に私のトートバッグを置いたのだった。 「ありがとうございます……」  運転席に座った男性に礼を述べるが、男性は何も言わずに、車のハザードランプを消すと、エンジンをかけたのだった。 「どこに行くんですか……?」 「貴女をご自宅か最寄りの駅まで送り届けます。お住まいはどちらですか?」  正面を向いたまま、事務的に話した男性に私は首を振る。 「家には帰りたくないです」 「ご家族と喧嘩でもされたんですか?」 「そうじゃないんです。ただ、家に帰ったら明日が来てしまうので、そうしたら仕事に行かなくちゃ行けないので、それが嫌で……」 「……仕事、又は職場に問題があるんですか?」  私が小さく頷くと、それをバックミラーで見ていた男性は、また小さく溜め息を吐いたのだった。 「橋の上にいて身体が冷えてしまったでしょう。とりあえず、私が借りている部屋に連れて行くので、何か温かいものでも飲んで下さい。このままでは風邪を引いてしまいます」 「でも、ご迷惑が掛かるのでは……」 「……迷惑になるのなら、最初から声を掛けていません」  そうして、男性は車を走らせると、この辺りでも一番大きなビジネスホテルの駐車場に入って行ったのだった。
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