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「それで?結局?」
同期の由紀子が呆れ顔で、こころが月山さんから渡された書類を、嫌なものを触るように指の先で弾きながら言った。
「やり直す」
こころは画面から目を離さず、そう答えた。
「でもさぁ、これを直すとしたら、結局さぁ」
「全部やり直しだね」
由紀子はため息をつくと、こころの隣である自分の席に座った。
「貸しな。手伝ってやる」
書類を受け取ると、由紀子は「ほんとにこころは、いっつも貧乏くじ」とブツブツ呟きながら、入力を始めた。
「まぁ、実際わたしが作ったヤツだったし」
なぜかぼそぼそと弁解して、こころも作業に戻る。
時計を見れば、もう八時半をまわっていた。このフロアに残っているのは、もうこころと由紀子だけだった。
ぶつぶつと文句を言いつつ、それでも手伝ってくれる毒舌のお人よしに、こころは感謝しながら、手を動かした。
月山さんに指摘された箇所を、改めて見直すと、なるほどと合点がいくものがほとんどだった。だったら、最初に作成した時に、わたしが気がつけば良かったのだ。
使えない奴。
そう自分に突っ込むと、自分でもそうと分かるほど落ち込んできた。
「こんなの、こころの弟にやらせたら、ここだけちょいちょいっと変えられるプログラムつくってくれるんじゃないの?」
「あー、できるかもー」
由紀子の冗談に、こころは本心で答える。
あの天才な弟だったら、わけないだろう。
こころの弟は中学生ながら、有名企業にスカウトされるほどの天才プログラマーだ。
在籍しているはずの公立中学校には全く顔を出さないが、そんなことは問題にならないくらいの、プログラミングの腕を持っている。将来も約束されているし、そもそも、もう自分で稼げている。
しかもその収入は、二十五歳で一般職の事務職をしている自分よりも、はるかに多い。
「まぁ、でも、社外秘だからねぇ」
こころがそう言うと、由紀子は「真面目だなぁ」と苦笑した。
だが、由紀子はそれ以上この話題に触れなかった。
由紀子のこういうところが好きだ。
こころがもうしたくない話題を、さっと察知してくれる。
弟だけでなく、こころの父母も才能に長けた人たちだった。父は世界的なコンクールで賞をもらうような有名なパティシエだし、母は警察官で家にほとんど帰ってこない。どこの警察署なのかも教えてくれないが、どうやら海外にまで渡っているらしいことを、最近こころは知った。
こころだけが普通だった。
アクの強い自分の家族を見ながら、この人たちと本当に血が繋がっているんだろうか、と思ったこともあるくらいだ。
「目がチカチカしてきたー」
由紀子が悲鳴を上げる。
「ごめーん」
こころも何度も瞬きしながら、叫んだ。
おかしなテンションになってきた。
二人しかいない静かなフロアで、キーボードを叩く音と、女二人の叫びがこだましている。
「くそー、月山めー」
由紀子が叫ぶ。
「くそー、わたしのばかぁ」
こころが叫ぶ。
それから声を震わせながら、二人で笑っていた。
今、このフロアを誰かが覗いたら、恐ろしさに逃げ出すに違いない。
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