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「ただいま」
小声で挨拶をして家に入る。
一番下の小学生二人は、もう眠っている時間だ。
ドアをそっと開け、リビングに入ると、綺麗に整えられたテーブルの上に、ラップがかけられた夕食が置いてあった。
こころは軽くため息をついた。
あの女、また来たんだ。
「あ、おかえり」
振り返ると、弟の凪が立っていた。風呂に入っていたのだろう。髪がまだ濡れている。
先ほどの由紀子との会話を思い出して、こころはふっと笑った。
いくら天才プログラマーでも、こうした無防備な姿を見ると、やっぱり十五歳だなと思う。
「雫落ちてるよ」と濡れた肩を指さすと、凪は「ああ」と言って、無造作に手で拭った。
「加賀美さん、また来たの?」
テーブルの上の鮭の切り身を見ながら言うと、凪は「ああ」とまた頷いた。
「お父さんは?」
「ドイツだって」
こころはテーブルの食事には手を付けず、ごそごそと冷蔵庫を探り出した。
凪がそんな姉を見て、ため息をつく。
「反抗期かよ」
「うるさい」
「別に浮気してるってわけじゃないし」
「知ってるわよ」
「実際、俺たちも助かってるし」
「……」
加賀美さんというのは、パティシエである父の弟子だ。こころたちの母親が不在がちなのを気にして、なにかとこの家の世話を焼いてくれる。
それがこころにはたまらなく嫌だった。
親切心なのだろう。師匠の家族の世話をやくのは、彼女の中で当たり前なのかもしれない。
だけど、加賀美さんが、まるでこの家の妻のように、母のように、我が物顔で家事をこなすのが、こころには耐えられない。
だって、あの人、絶対お父さんの事好きだもの。
お父さんに全くその気がないのも分かる。あの人は本当にお母さんのことが好きだ。
だから余計に、お父さんは加賀美さんの好意に気が付かない。
「撫子さんは本当におせっかいだなぁ」と優しい笑顔で言っているのを、見たことがある。
やっぱり嫌だなぁ。
冷蔵庫の奥から、三日前に自分が作った肉じゃがを探り当て、レンジでチンした。
ご飯をよそって、レンジから肉じゃがを出し、テーブルにつくと、少し考えて、鮭の皿を引き寄せてラップを剥がした。
鮭に罪はない。食べ物を捨てるとバチが当る。
こころの様子を眺めていた凪は、「フッ」と鼻で笑うと、部屋に戻っていた。
笑いたければ、笑えばいい。
こころだって、子どもみたいだと思っている。
すぐに、凪は戻ってきた。
手にプリントをもっている。
「大翔と碧、来月授業参観があるんだって」
「ああ、そう」
プリントを受け取って、日付を確認する。平日だ。休みを取らなくては。
お父さんもお母さんも行きたがるだろうが、行ける可能性は低い。
「行けそう?」
「ああ、うん。なんとかする」
こころが即答すると、凪は「よかった」と嬉しそうに口を歪めた。
「あのさ」
「うん?」
「この家はこころがいるから、成り立ってるんだからな」
食べながらプリントを見ていたこころは、凪の言葉を聞き逃した。
「え?」と振り向いた時には、もう凪の姿はなかった。
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