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それからヒカルが行きたいと言っていた渋谷の夜カフェに向かった。この店を選んだ理由を訊ねたら、ヒカルは「誕生日くらいケーキを食いたかった」と返してきた。
その返答も、店の選び方も、ヒカルらしくないと思うが、そもそもヒカルらしいってなんだろうとも思う。
二人は二階のソファ席に案内された。奥まった席で、ひと目を気にせず二人で過ごせそうな落ち着ける席だ。
注文を終えたあと、弦は紙袋ごとヒカルに買っておいたパスケースを手渡した。
「ヒカル。誕生日おめでとう」
「ありがとう」
「開けてみてよ」
弦の言葉に従ってヒカルが包装紙を解いた。
ヒカルは小さな箱から黒のパスケースを取り出し眺めている。
「ヒカル、電車で通学してるんだろ? それならパスケース使ってくれるかな……って」
「使う。しかもこれ、弦のと色違いだよな」
「そう。気がついた? よくあるタイプのパスケースだけど、このリールとレザーのストラップが意外に便利なんだ」
弦はヒカルの持っていたパスケースのストラップを指す。
「嬉しい」
ヒカルが笑った。今日初めてヒカルが笑った。ヒカルが喜んでくれたのが伝わって、弦の心まで弾んだ。
「俺、弦と同じやつ、ずっと欲しいと思ってたんだ。なんでわかった?」
「それさぁ、一真が……」
言いかけて、すぐにやめた。だが時既に遅しだった。
「一真?」
「いや、なんでもない、あのっ……」
「あいつから聞いた?」
ヒカルの顔から再び笑顔が消えた。もはやヒカルとの会話に『一真』という言葉は禁句だ。
「……ごめん」
「なんで謝る? 俺、一真と話をしてもいいって言ったけど」
「そうだよな、ごめん……」
しょげ返る弦。ヒカルは「ほんと一真は目障りな奴だな。俺の目の前から消えろよ」と忌々しそうに呟いた。
そのとき、ヒカルのスマホが鳴った。
「父さんだ……」
ヒカルは立ち上がり、店の隅で話をしている。ただならぬ雰囲気のヒカルを見ていると弦まで不安になってきた。
通話を終えたヒカルが、弦を見る。
「未延が事故った。一真を乗せた状態で、交通事故だ」
「えっ……!」
驚きすぎて頭が真っ白になった。事故、事故って……。
「大丈夫。大きな事故じゃなくて、二人とも軽症みたいだから。もう病院から家に帰ってきていて大きな問題はないらしい」
「よかった……」
無事だと聞けて、心が一気に落ち着いた。
「ヒカル。俺も一緒にヒカルの家に行きたい。連れてってくれないか?」
弦としては、大切な人が事故に遭ったらまずはこの目で無事を確認したいと思っていた。だが、ヒカルから思いもよらない答えが返ってきた。
「行かなくても大丈夫だろ。父さんがいるみたいだし、一真も未延も軽症なんだから」
「えっ……」
「俺が行ってなんになる?」
「ヒカルは心配じゃないのか?! 俺はすごく心配だ。一真に会いたい。別に何もしてやれることはなくても会って話がしたい。ひと目一真の無事を見るだけでもいいから」
弦の訴えにヒカルが「わかった」と頷き、すぐさまスマホで連絡を入れた。
「迎えの車を頼んだから、弦はそれに乗ってけよ」
「えっ? ヒカルは?」
「俺はいい。行かない」
「だって一真は兄貴だろ?!」
「一真も俺に会いたくないはずだ。あいつは弦だけいればいいんだから」
「そんなことない!」
ヒカルもおかしいし、一真もおかしい。ふたりとも優秀なはずなのになんで……。
「ヒカルも一緒に行くんだよっ」
こうなったら半ば無理矢理だ。弦はヒカルの腕を引っ張って店の外に出た。
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