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「今日は最後までしない。だからそんなに緊張するな」
ヒカルが弦の髪を撫で、額に優しくキスをする。
「嫌だ。ヒカルお願い、最後までしよ?」
今日、行為が終わったらヒカルに別れを告げるつもりだ。もう次はないのだから、最後までして欲しい。
「焦らなくていい。弦」
「焦ってないよ、お願いだから」
ヒカルがじーっと顔を覗き込んでくる。その目は弦の心中を見透かすかのように鋭い。
「……な、なんだよヒカル」
「おかしい。弦、俺に何か隠してる」
「えっ?」
「言えよ。今日の弦は変だ」
ヒカルは弦を組み敷いて、弦の頭の横に両手をついたまま睨みつけてくる。
「なんでもない——」
「ある。言えよ。見当はついてるから」
感情を押し殺したような声だった。
ヒカルはきっと怒っている。平静を装っているが、ヒカルの手が微かに震えている。
「ヒカル……」
言いたくもない。せっかくヒカルと恋人同士になれたのに。
「俺たち、別れようか……」
ヒカルは何も言わない。さすがヒカルだ。表情ひとつ変えなかった。
「ヒカルには大事な将来があるだろ? 俺がヒカルのそばにいたらそれが台無しになる」
ヒカルには一真とともに代々引き継がれた家を守っていく使命がある。弦ごときで一真と仲違いしている場合じゃない。それにヒカルならこの先いくらでも弦よりいい相手に恵まれるはずだ。
「やっぱりな。こうなると思ってたよ」
ヒカルは気がついていたのか……?
「あの、俺はヒカルのことを嫌いになったわけじゃなくて——」
「理由はわかってるからわざわざ言うなっ!」
ヒカルに勢いよく言われて、弦は身体をビクッと震わせた。
ヒカルは弦の真意をわかっているのだろうか。
「うん……だから、最後にヒカルと……」
弦がヒカルに触れようと、ヒカルの右腕に手を伸ばしたら、ヒカルはサッと手を引き、ベッドから降りた。
「抱かない。俺にはもう弦に触れる権利はないから」
弦を見下ろすヒカルの目は冷たい。
弦に開かれ始めていた、ヒカルの心の扉がバタンと閉じた音が聞こえた気がした。
「告白されて、振ったときによく言われるんだ。『付き合うのが無理なら一度だけ抱いてください』とか『キスしてください』とか。なんなんだあれは。俺とそんなことしても、後で本当の恋人ができたときに後悔するだけだろ」
弦はヒカルの言葉をベッドの上に座ったまま聞いている。
「弦はどうせ義務感だろ? 俺に同情してるんだ。付き合っておいて、一回もヤらせてあげないのは俺が可哀想だとでも思ったんだろ? だから最後にこんなことを言い出したんだ」
「違う……」
ヒカルの氷の刃のような言葉が一つ一つ弦の胸を突き刺していく。苦しくて涙が溢れそうだ。
「自惚れんなバーカ。誰がお前なんか抱くか! もうお前になんの興味もない」
ダメだ。ひと言でも声を洩らしたら、嗚咽を上げてしまいそうだった。
「さっさとお前の行きたいところに行けよっ」
ヒカルからの拒絶。これは当然の仕打ちだ。
弦はヒカルのプライドをズタズタに引き裂いた。
ヒカルほどの人間が、二度も振られるわけがない。
ヒカルはきちんと弦を愛してくれていた。そんなヒカルを理不尽に傷つけたのだから、嫌われて当然だ。
——さよなら。ヒカル。
最後にヒカルを見た。
こんな酷い真似をしたら、冷徹の仮面のヒカルから見下されると思っていた。
だが、あんなに冷たい言葉を投げかけてきたヒカルは、なぜか今にも泣き出しそうな顔をしていた。
弱々しいヒカル。
あの顔こそヒカルの本性だったのかもしれない。
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