5『変わり始めた日常』

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****side■唯野(課長) 『そんなに板井が大切なのかよ』  聞こえてきた声は、笑いを含んでいる。  唯野は机の上に残されたメモをクシャッと握りつぶす。そこには板井の丁寧な字で”黒岩総括と話をしてきます”と書かれていた。 ──なんでっ!  俺が話すと言ったはずなのに。   「板井に変なこと言ってないだろうな?」 『変なこととは?』  聞き返され、唯野は唇を嚙みしめる。こちらから十七年前のことを口にすることはできない。知らないなら、それに越したことはないから。 『好きだ、唯野』 「なんなんだよ、今更」  好きだのつき合いたいだの言いながら、さっさと結婚して子供を作ったような男なのだ、黒岩は。 『ずっと好きだったよ』  そんな奴の言葉なんて信じられるわけがないのに、いつだって心をかき乱す。だから苦手だったのだ、昔から。 『俺は諦めない。必ず板井から奪ってやるから』 「……っ」  耳元で囁くテノールボイス。  性格は最悪だが声だけは良いよな、お前! と心の中で恨み言を漏らしつつ黙り込む唯野。どう切り返せばやり込められるのか思案していると、不意に後ろに身体を引かれ、スマホを奪われる。 「こんな人の話しに耳を傾けてはダメです」 「板井……」  眉を吊り上げた彼が通話終了に触れ、スマホを机の上に置いた。  ここは苦情係。まだ部下の二人が戻ってきていないとはいえ、隣は商品部であり会社の中。それなのに、後ろから抱きしめられたまま身体を少し捻り、唯野は板井を見上げていた。 「黒岩総括の電話の相手、課長だったんですね」  当然だが、社内で彼が唯野を名前で呼ぶことはない。 「板井のことが心配で」 「そうですか」  彼が無口なのは元からだ。それでも話してくれるようになったし、言葉が足りないことに慣れていたはずだ。  それなのに、何故自分は泣きたい気持ちになるのだろうか? 「課長。ちょっとこっちに……」 「?」  肩をわずかに揺らし、ため息をついた彼が唯野の手を掴む。  連れてこられたのは、苦情係の奥にある給湯室。 「あそこは目立ちますから」  正面からぎゅっと抱きしめられ、唯野は板井の胸に額を寄せた。 「なんで、勝手に黒岩と会うんだよ」  こんなのは、きっとただの八つ当たり。 「勝手に……ですか。まあ、そうですね」  彼の手が優しく唯野の背中を撫でる。 「あなたをあの人に会わせたくないから。ああいう人ですし」  黒岩の言葉は板井にも聞こえていたのかもしれない。 「俺の気持ちが変わるとでも?」 「そんなことは思ってません」  何が気に入らないのかわからないまま、板井に感情をぶつける。十以上も年の離れた年下の恋人はそれを真摯に受け止める。 「あの人は強引で、課長の気持ちなんて無視する人なんですよ? そんな人があなたの話しを聞くとは思えない。ただそれだけです」  自分と違い板井は冷静。  大人だなと思った。 ──こっちはアイツが余計なことを言うんじゃないかとヒヤヒヤしているというのに。 「課長」 「なんだよ」  目に涙を浮かべる唯野に、板井は優しい笑みを浮かべる。 「何を知ったとしても、俺の気持ちは変わらないから。だからそんな顔しないで欲しい……です」  彼の手が頬に伸び、触れるだけのキス。  自分はきっと黒岩にこの幸せを壊されるのが嫌なのだろうと思った。 「しかし、困ったものですね。黒岩総括には」  伊達に営業部で好成績を残していたわけじゃない。黒岩の根性と執着は誰にも真似できないものがある。 「俺は、あなたの気持ちが変わるかどうかよりも……その……」  チラリとこちらを見て、何か言いにくそうにする板井。 「なんだ?」 「だから……察してくださいよ」 と板井に太ももから尻にかけてスッと撫でられ、びくりと反応してしまった。 「え?」  驚く板井。 「変なところ触るなバカ」  その程度で? とでも言いたげな板井に唯野はぎゅっと抱き着いたのだった。
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