プロローグ

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プロローグ

──なんでこんなに、ショックなんだ? 「板井」 「はい?」 「会社で何してるんだ」  先日、十七年の結婚生活に幕を降ろした。 「え? これは違うんです」 「イチャつくなとは言わないが、勤務時間外にやれよ」 「課長、誤解です!」  昨日、別居のために有給休暇を使い、新しい住まいを探した。 「別に誤解なんてしてないだろ?」  出勤してきたら自分の部下が、隣の部署の女の子と抱き合っているのを目撃。何故それがこんなにもショックなのか分からないまま、唯野はいつになく冷たい声音で板井に告げる。 「始業前には部署に来いよな」  唯野は彼の制止も聞かず踵を返す。  角を曲がり、唯野は膝に両手をつく。  妻から別れを切り出され、何も感じない自分がいる。いつかはこうなると思っていたから、その日がついに来たんだなとくらいしか思えずにいた。  愛はなかった。それでも愛する努力はしたつもりでいた。  その努力が実らなかっただけ。せめて妻のこの先の人生が、明るいものであればよいと願う。 ──(ばち)が当たったのかな。  泣きたい気持ちになって、唇を噛みしめる。彼を好きだと思ったきっかけはなんだったろうか。 「おわッ……」  曲がり角にいた唯野に誰かがぶつかる。唯野は膝に両手をついた姿勢で身体を捻り、相手を確認した。 「なんでこんなところで立ち止まってるんです?」  慌てて追ってきたのだろうか、困った顔をして彼はこちらを見ている。 「いいだろ、別に」  いつもなら絶対言わないセリフ。  彼はため息を一つ着くと、 「さっきのは誤解です」 ときっぱり言い放つ。 「別に、俺には関係ないし」  唯野は上半身を起こすと、彼に向き直って。 ──関係ないことだ。  俺と板井は特別な関係じゃない。  想いを告げたこともないし。 「そうですか。分かりました」  彼、板井はじっと唯野を見つめていたが、 「先に行きますね」 と言って唯野の脇をすり抜ける。  彼が唯野に対し、冷たいのも初めてだった。 「っ……」 ──自分が言ったくせに。  唇を噛みしめ、手の平で顔を覆う。板井は入社してからずっと自分を慕ってくれていた。彼の好意が尊敬であることは知っている。いつだって自分を気遣ってくれる彼に、特別な想いを抱いたとしても不思議はないはずだ。  それでも、自分は妻帯者だったからその想いを表に出すことはなかった。 ──たった一日居なかっただけで、誰かに取られるくらいなら……。 「?!」  ふいに後ろから抱きしめられ、唯野はびくりと肩を震わせる。 「なんで泣くんですか?」 「板井」 「そんなことされたら、期待してしまう」  ”ずるい”と言われ、自分を抱きしめているその腕に触れた。 「総括から、課長が離婚されたと聞きました。もう、我慢しなくていいですよね?」 「我慢?」  なんのことだというように振り返ろうとすれば、それを阻むようにさらに強く抱きしめられる。 「あなたが好きです。俺とお付き合いしませんか?」
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