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天使
「おい! カルサ! 何ボーっと突っ立ってる!」
突然聞こえたその声に、カルサはビクリと肩を震わせた。
大きな岩を押し退けて、頭から血を流したペリドが近寄ってきた。
「……ペリド」
カルサは酷い荒れ地の中心に立っていた。
地面は大きく捲れ返り、ほんの少し前まで平地だったなどと言っても、誰も信じられないほどゴツゴツと酷い有様になっている。
その荒れ果てた地は、惨い傷を負った死体で埋め尽くされていた。
時折呻き声は聞こえるが、既にほとんどが虫の息だ。
「まだ生きてる奴がいるのか」
呻き声を聞き、ハッと顔を上げ、希望の光を瞳に映すペリド。
「早く塔へ運ぶぞ! これ以上仲間を死なせる訳にはいかない!」
「無理だ。運ぶにはもう……。それに、数が多すぎる」
「で、でもよ」
「ペリド」
諦めの悪いペリドを宥めるように、カルサは低い声を出す。
ペリドは唇を噛み締めて俯く。
「……分かった。早くここから離れるぞ。またどこから現れるか分かったもんじゃねえ」
ペリドは険しい顔つきで声を絞り出した。
だが、カルサはペリドの言葉を聞いているのか聞いていないのか分からない様子で、ふらふらと辺りを見渡し続ける。
「カルサ、お前は平気なのか?」
ペリドは心配そうにカルサに声を掛ける。
「俺は、何ともない。かすり傷だけだ」
「そういう事じゃねえよ……」
身体の傷ではなく精神状態を気にしていたペリドは、カルサの返しに呆れた顔をする。
ペリドが大袈裟にため息を吐いたその時、どこからかむせび泣く声が聞こえてきた。
「あっちだ」
ペリドが岩陰を指差し、そちらへ駆け寄って行った。
カルサも彼について行く。
大きな岩の後ろには、一組の男女がいた。
ぐったりと力の抜けた男を抱きかかえながら、女は顔を歪めて泣き声を上げていた。
男は既に死んでいた。
カルサはこの二人を知っている。
「この二人、兄妹だったんだ」
ペリドは悔し気な顔を浮かべ、唇を噛み締めた。
二人が兄妹であることも、カルサはとうに知っている。
他国の戦士だが、この戦争ではカルサが率いる隊の一員だった。
「なあ……」
ペリドが慰めの言葉をかけようとしたその直後、何者かがカルサの真後ろに着地した。
「今は戦争中だ。いつまでも泣いているんじゃない」
カルサの後ろで、冷静な声でそう言ったのはハウラだった。
隣国の魔法騎士である彼が、この惨状の地に駆け付けてくれたのだ。
「ハウラ! そんな言い方はないだろ!」
だが、棘のある物言いに、ペリドは怒りをあらわにする。
「泣き声が遥か上空までも聞こえた。こいつは自らを危険にさらしている」
「言い方の問題だって言ってんだろ。マリンだって、平常じゃいられるわけがねえんだから」
「オーラは男らしく世界のために戦って死んだ。それを称えもせず、そいつは犬死にしようとしているんだぞ。それは我慢ならない」
ハウラもまた、目の前で死んでいるオーラと言う男の死を酷く悔やんでいた。
だが、悲しみや喪失感による心の乱れが、最も人に隙を与えてしまうことを、十分に理解している。
「ペリド。お前は感情的になりすぎる。もっと冷静になれ」
見習え、とでも言うように、ハウラはカルサをちらりと見ながらペリドにそう言った。
カルサは先ほどから、何も言わずに感情を一切表すことなく突っ立っている。
ハウラの説教を受けずとも、ペリドは自分の欠点をよく理解していた。
冷静さを欠くことないカルサを手本に、作戦遂行を目指したことだって多くある。
だが、ペリドには、カルサは既に普通の状態には見えていない。
むしろその落ち着きに病的な危うさを感じている。
「しかし、大分死んだな。ここだけじゃない。2000マイル離れた海岸も、同じようなものだった」
ハウラはそう言って鋭く地平線を睨みつける。
重苦しい空気の中、兄を失ったマリンは未だしゃくり上げながら泣いている。
だがその時、ペリドとハウラは、大地が織りなす殺伐とした風の流れを感知した。
一刻も早く、そこから立ち去る必要があると、二人は思った。
だが、カルサはぼうっと遠くの空を見つめている。
「カルサ、どうした。流石のお前も、これほど多くの人間の死は堪えるか」
ハウラは顔を顰めてカルサを見る。
カルサは未だ、気の抜けた顔で流れる雲を眺めている。
「ハウラ、こいつさっきから変なんだよ。俺が見つけた時も、心ここにあらずって感じで……」
「あ……」
ペリドがハウラにこそこそと耳打ちをしていた時、カルサが小さく声を漏らした。
不思議に思い、ペリドとハウラはカルサを凝視する。
カルサは天を仰いだまま、その両手を広げる。
「おい。カルサ?」
不意に、雲の切れ間から一際眩い太陽光が差し込んだ。
その光は地上に立つカルサの体を照らし、見通しの良い荒れた土地で彼の存在感を際立たせた。
その様子にペリドが眉をひそめた時、見上げるカルサの顔に、小さな影が映り込んだ。
空を見上げたペリドは、驚きに目を見開く。
雲の切れ間。
光の根源付近。
遥か上空の薄明光線の中に、一人の少女が浮かんでいた。
「……天使、か?」
ハウラも雲間に浮かぶその少女に気が付き、呆然と立ち尽くす。
ペリドも食い入るように、その神々しい光に包まれる少女を凝視した。
少女は真っ白な、ゆとりのある衣装に身を包んでいる。
風にふわりと袖が揺らいでいる。
それがまるで翼のように見える。
遠く、そして光に包まれている分、おぼろげに見える彼女の姿は、この世の物とは思えないほど美しいものを目にしている気にさせる。
長い髪が靡き、光を四方に散りばめる。
天使と見まがうほどの存在感を放つ少女は徐々に下降してくる。
少女は幸せそうに笑っており、両手を広げて待つカルサの胸へとふわりと飛び込んだ。
カルサは柔らかい笑みを浮かべ、それを受け止めた。
その満たされたようなカルサの表情に、ペリドは酷く驚いた。
舞い降りた少女も無邪気な笑みを浮かべ、カルサの腕を強く掴んでいる。
地に足を付けることが難しいのか、未だふわふわと体が浮遊している。
「ポフィラ……この時を、どれほど待っていたことか……」
切ない声で言うカルサの表情に、ペリドの胸が締め付けられる。
どんな状況にも動じることなく、顔色一つ変えずに対処し、冷静な振舞いで人を取りまとめてきたカルサの姿を、誰よりも近くでペリドは見てきた。
だが、これほど幸せそうに笑うカルサを、ペリドは見たことがない。
そして、カルサが待っていたと言う、目の前の少女の存在も、もちろんペリドは知らなかった。
「一体……あいつは誰なんだ?」
ペリドが疑問に満ちた顔で独り言のように呟いた。
ようやく力が安定し出したのか、少女は剥き出しの足を地に付け、カルサの手を借りながら歩み寄ってくる。
頬に涙の線を張り付けたマリンは何かを察したのか、黙ってオーラから身を離し、その場を立ち退いた。
ポフィラと呼ばれた天使のような少女は、カルサの手を離し、横たえられたオーラの傍らに膝をついた。
そして、冷たいその手を握り取る。
マリンやペリドは、一歩下がったところから、ポフィラの様子を固唾を飲んで見守った。
ポフィラは目いっぱい息を吸い込むと、透き通るような声で安らぎの歌を披露した。
それほど声を張り上げている印象はないが、彼女の歌声は遠くの大地まで澄み渡るように広がっていく。
乾き切った荒れ地に、僅かながら潤いが戻ってきている事をその場の誰もが感じ取った。
ポフィラの歌声は聞く者を魅了し、心を癒している。
だが、それだけではない。
ポフィラがその歌を歌い終わる頃、倒れていたオーラの指先が、ぴくりと動いたのだ。
それを見たペリドやマリンは目を見張り、息を呑む。
「こ、ここ……は……」
歌が終わり、オーラが目を覚ます。
「オーラ!」
すかさずマリンは駆け寄り、大粒の涙を流しながら力の抜けたオーラに抱きついた。
「マリン? 何を、泣いているんだ?」
状況を理解できないオーラは弱々しく言葉を吐く。
「オーラ……。全く……心配させやがって」
ペリドが目に涙を浮かべて笑った。
抑えていた悲しみが、安心する気持ちをきっかけに溢れ出したようだった。
ハウラもやれやれと言った様子で腕を組み、小さく微笑みを浮かべている。
「カルサ、一体あいつは何なんだ? 連盟に所属する魔術師ではないんだろう?」
らしくもなく柔らかい笑みを浮かべて、ポフィラの姿を見つめ続けていたカルサに、ハウラは含み笑いをしながら言った。
「あいつは……俺の命の根源だ」
愛おし気に目を細めて、静かにカルサは言った。
ハウラは驚愕の表情を浮かべた。
カルサは今まで、決してそんな風に異性を見ることはなかった。
別人のような表情を浮かべるカルサを、興味深そうにハウラは見つめた。
だが不意に、カルサが驚いたように眉を引き上げた。
不思議に思ったハウラが視線を前方に向けた時、ポフィラは体を地面へと横たえた。
「ポフィラ?」
カルサが掠れる声で呟いた。
ペリドもマリンも、何が起こったのか分からず、倒れてしまったポフィラをぽかんと見つめた。
カルサとハウラの後ろで、大勢の戦士たちが、次々と息を吹き返した。
しかし、地面に横たわるポフィラは息をしていなかった。
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