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意表
荒野には沢山の負傷者が横たわっている。
治療が必要ない戦士は数人しかいない。
最高司令役であるカルサは、失意に満ちた目で辺りを見渡していた。
悔し気に歯を食いしばっているペリド。
親しい仲間の死を、何とか受け入れようと深呼吸をしているハウラ。
圧倒的力の差に、絶望しているソレース。
削られた戦力を惜しみ、どう立て直すべきか深刻に考えているセドニー。
顔を俯かせる彼らに、カルサは順番に目を向けていく。
次に、地面の上に視線を滑らせる。
頭から血を流し、意識不明で倒れている中年の男。
それはソレースの師であるカイヤ。
その数メートル先に倒れているのは、ハウラが納める領地の戦闘員から加わったイオラという女。
腸が見えてしまいそうな程酷い怪我を負っているイオラを、怯えた表情で治療している女の名はフローラだ。
彼女は遠く離れた国の騎士団に所属していた神秘の使い手だ。
年齢はそこまで高くない。
カルサと同い年ぐらいであった。
まだ戦場での経験が浅く、惨たらしい傷と流れ出た多量の血液が常に視界に入り、精神的に参ってしまっている。
傷に力を流し込むイオラの手は大きく震え、その目には酷いクマができている。
この荒野には何百と人間が存在しているのに、今は風の音しか聞こえない。
傷を治療しているヒーラーも、怪我人に声を掛ける気力はないようだ。
今、この大地は落ち着いている。
ひとしきり暴れて、少し気が晴れたのか、はたまた疲労しているだけか、カルサには分からないが、再びこの大地が怒りをあらわにすれば、確実に全滅することだけは予想ができた。
カルサは、詰まる息を無理矢理に吐き出し、騒ぐ胸を押さえる。
「……ポフィラ」
カルサのその呟きは、蚊の鳴くような声であったが、ペリドやハウラ、無事であった戦士たちは、はっきりとその声を聞き取った。
恐らくカルサが口にしたのは、誰かの名前だ。
それは、彼の声を聞いた戦士の誰もが考えつくことだった。
カルサの声によって崩壊した静寂。
しかし、普段は活気に満ちているペリドやソレースも、カルサの不思議な呟きに対して問いかける事はしなかった。
再び訪れた静けさは、非常に耐えがたい居心地の悪さを引き出した。
「カルサ」
最高司令役であるカルサの様子を確かめようと、セドニーが声を掛けたその時だ。
カルサの右手首に、初めは薄っすらと、そして徐々にはっきり、頑丈そうな手枷が出現した。
その手枷に繋がっている鎖は、真っ直ぐに空へと伸びており、雲の中へと続いている。
ペリドを始めとしたカルサの戦友たちは、皆目を見開いて鎖の先の曇り空を見上げている。
カルサがゆっくりと空を見上げて、その両手を広げた。
何かを受け止める準備をしている。
そんな印象を与えていた。
雲の切れ間から光が地面に差し込んでくると同時に、何かが舞い降りてきた。
ピンと伸びていたカルサの手枷の鎖が、突如弛むと、地面にがしゃりと落ちる。
まるで鳥の羽のように、風に左右に煽られながら、地上を目指して降ってくるそれは、一人の小柄な女の子だった。
背中を下にしているため、誰もその顔を確認できずにいる。
空中に広がる長い髪が、余計に少女の全貌を隠してしまっている。
しかし、浮かぶ少女の高度が下がるにつれて、はっきりとそれが見えた。
少女の首元にも、カルサの手枷と似たような素材で出来た、首枷が付けられていた。
カルサの手枷から伸びる太い鎖は、少女の首枷へと繋がっていた。
地面に接する鎖の長さが増すにつれて、少女が徐々に地上へと近づいてくる。
カルサは少女から目を離すことなく、彼女が自分の腕の中へ降ってくるのを幸せそうに笑みを浮かべながら待ち構えている。
「あれは……一体何者だ?」
やっとのことでハウラがそう声を漏らした。
だが、ペリドもソレースも首を傾げるだけで、何も言葉を発しない。
やっと確認できた少女の顔を、その場の戦士たちは誰も知らなかった。
怪我人を治療する手まで止め、その場の全員が少女の存在に目を奪われていた。
そして、ようやくその少女がカルサの腕に納まった時、雲の切れ間が大きく広がり、太陽の光が荒野全体を照らした。
カルサに横抱きにされている少女は、安らかな寝息を立てていた。
まるで幼子のような無垢な寝顔をしており、誰もがその少女に釘付けとなる。
「お、おい! それ……その子、もしかしてお前の鬼神なのか!?」
呆けた空気を打ち破り、慌てた様子で声を荒げたのはソレースだった。
ペリドやセドニーが、ぎょっと目を見開いてソレースを見やる。
だが、禁句にも値する話題を口にしたソレースをたしなめたのは二人ではなく、ハウラだった。
「そんなこと、あり得るわけがない。鬼神はただのファンタジーだ。存在しない」
冷静に、だがその額に汗を滲ませてハウラは言う。
眉間に深い皺を寄せ、状況を理解しようと必死に頭を働かせている。
「で、でも……噂が……」
罰が悪そうに言い訳をするソレースに、ハウラはやれやれと息を吐く。
カルサには、ある噂があった。
神秘を扱えない人間が、戦士団のリーダーを任されるほどに強力な戦闘力を持ち合わせることができたのは、鬼神の力を借りているからだ。
というものだった。
遥か昔に存在したと言われる、人類の存亡に大きく影響を及ぼした邪悪な鬼。
鬼神とは、人間との力比べの末、人間に屈さざるを得ず、仕えることとなった鬼の呼称であった。
だが、そんなものはただの伝説。
誰も本気にはしていない。
カルサの戦闘センスを妬んだ者がでっち上げた、質の悪いホラ話であった。
カルサの実力を否定するも同然なその噂は、彼と親しい友にとっては非常に許せない噂だ。
だから、ペリドもソレースも、隣国の戦士であるハウラでさえも、その話を口にすることは、例え確認でもしなかった。
しかしながら、もしかしたら噂は本当かもしれないと勘ぐってしまいそうなほどに、カルサは強大な力を発揮することが度々あった。
そして、空から現れた少女の存在は、ソレースが真相をどうしても確かめたいと思って突発的な質問を投げかけさせるのに、十分な要因となってしまった。
「ソレース! 根も葉もない噂を本気にして、安直な結論を導くな」
ペリドが不機嫌な顔つきでソレースを叱咤する。
ソレースは申し訳なさそうにカルサに視線を向けた。
その視線に気が付いたカルサが、切なげに眉を歪め、笑みを漏らす。
「ソレース。残念ながら、こいつは……ただの人間だ」
そう言うと、カルサはもう一度少女の寝顔に視線を向ける。
少女の瞼が、ぴくぴくと動く。
カルサが期待を込めた顔を見せる。
皆、固唾を飲んで見守る。
「……おはよう」
目を開けた少女が、微笑みを浮かべてそう言い、カルサの頬にその白い手を添えた。
「うん」
カルサはそう言っただけだったが、愛おし気に目を細めて破顔した。
少女はカルサに自分を下ろすように促すと、カルサはゆっくりと地面に彼女の足を下ろした。
長い長い鎖が地面に広がっており、少女は慎重にそれを避けて裸足の足を踏み出していく。
じゃらじゃらと首から伸びる鎖の音を響かせて、少女は荒野を歩く。
「ポフィラ……」
カルサが少女の背中に投げ掛ける。
「なあに?」
少女は満面の笑みで振り返る。
その顔を見たカルサは表情を一変させ、複雑そうに眉をひそめた。
「大丈夫だよ」
そんなカルサに、ポフィラと呼ばれた少女は笑いかける。
そして言う。
「分かってるつもり。全部ね」
ポフィラはそう言うと、握り込むように両手を胸の前に寄せた。
そして、次にその両手を開いた時、その手の平には色とりどりに輝く宝石の欠片のようなものが沢山乗せられていた。
光を放つ鳥や蝶が、どこからともなく瞬く間にポフィラの元にやって来て、その欠片を一つずつ取り去っていく。
そして、彼らは死の瀬戸際を彷徨っている戦士の口の中に、その欠片を一つずつ落とし込んでいった。
その欠片を飲み込んだ戦士たちの傷が、見る見るうちに治っていく。
信じられないスピードで回復していく戦士たちを、ペリドやハウラは呆気にとられた様子で眺めていた。
「これで、大丈夫」
達成感に満ちた表情で、再びポフィラはカルサに目を向けた。
カルサは切な気に歪めていた顔を一度俯かせたが、思い直したようにその表情を穏やかなものへと変え、優しくポフィラを見つめ返した。
慈愛に満ちた目をして、ポフィラに手を伸ばす。
ポフィラは溢れんばかりの幸福感をその顔に浮かべ、カルサの方へと一歩を踏み出した。
その直後。
ポフィラの足元の地面が、まるで沼地にでもなってしまったかのように、ずぷりと彼女の素足を飲み込んだ。
カルサが名前を呼ぶ隙もなく、ポフィラの体は全て、液体のようになった土の中に、落下とも言えるスピードで沈んでいった。
カルサとポフィラを繋ぐ鎖が、見る見る内に地面の中へ引き込まれ、どんどんと短くなっていく。
広範囲に長々ととぐろを巻いていた鎖は、あっという間にそのほとんどを地面の下に飲み込まれ、カルサの右手を強く引っ張る。
「カルサ!」
ポフィラと同じように、カルサまでも地面へ引きずり込まれてしまう。
そう思ったペリドが、逼迫した表情でカルサの名を呼んだ。
しかし、カルサの右手は地面を貫通しなかった。
「くっ」
余りの重さにカルサは膝を突くが、彼の体は右手同様、沈み込むことはなかった。
だが、未だに土の中に潜り込んだ鎖が手首を引き続け、カルサの右手は地面に固定される。
ぎりぎりと手枷が手首に食い込んで、カルサは痛みに歯を食いしばる。
ペリドやセドニーがカルサの元に駆け付けるが、どうすることもできない。
「ポフィラ!」
カルサが地面に向かって叫ぶ。
鎖の先に、ポフィラの首枷があることを思い出し、ペリドはゾッと青ざめる。
「どうすれば! どうすればいいんだよ!」
取り乱した様子でソレースが叫ぶ。
しかし、成す術もなく、その時は来た。
「え……」
突如カルサは、放心した顔でそう声を漏らした。
その直後、べったりと血の付いた首枷が、またも液体化した地面から反動を利用して飛び出してきた。
小気味の良い音を鳴らして、それはペリドの傍らに転がった。
誰もが息を呑み、血に染まった首枷を凝視した。
その首枷は輪郭を薄れさせ、やがて見えなくなった。
ペリドがカルサの手首に目を向けた時には、彼の手枷も見えなくなっており、圧迫された跡が残っているだけだった。
「カ、カルサ……」
ペリドが震える声でカルサを呼ぶ。
ポフィラを見つめるカルサの瞳を思い出し、ペリドは胸を締め付けられる。
カルサはゆらりと立ち上がり、ポフィラが姿を消した地面を指先で撫でた。
陰ったカルサの表情を、誰も直視することができない。
「……死んでしまうことは……知っていたんだ」
不意に、カルサがぽつりと呟いた。
皆、ただ耳を傾ける。
「他人が負った傷は、なかったことにはできない……。ただあいつが肩代わりをするだけだ。あいつの力の原理は知っていた。これほど多くの人間を救えば、死んでしまうことは覚悟していた。あいつもそれを分かってて、俺のために力を使ってくれた。でも……」
カルサの拳が、強く握られる。
「違う……。違う! こんなんじゃない! こんな風にお前を失うつもりはなかった! こんな惨たらしい死に方をさせるつもりはなかった! こんな痛みを、与えるつもりなんて……」
カルサは両手で顔を覆い、天を仰ぐ。
「こんな風に死なせるつもりはなかった……」
普段の彼からは想像できないような弱々しい声。
「本当なんだ……」
聞くに堪えないカルサの声に、どうしてかポフィラを良く知らない戦友たちまでも、激しい喪失感に見舞われたのだった。
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