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豹変
やがて大地の怒りは治まった。
だが、それは一時的なもの。
安心している暇はない。
焼け焦げた臭いが鼻の奥を劈く。
あちらこちらで人が呻いている。
無傷な人間は一人としていなかった。
辛うじて自分の足で立っている戦士も、今にも膝から崩れ落ちてしまいそうなほど憔悴した者たちばかり。
その絶望に包まれる戦場に、一人の少女が突如現れた。
気が付いた時にはそこにいた。
その場にいるのは戦闘服や鎧に身を包んだ戦士ばかりだが、少女が身にまとっているのは薄手のワンピースだけ。
長い艶のある髪を風に揺らし、きょとんとした表情で立っていた。
「誰だ……お前……」
ペリドが力なくそう言った。
しゃがみこんでいるペリドの足元には、酷い火傷を負ったハウラが横たわっている。
「ポフィラ」
少女は瞬きを数度繰り返してから名乗った。
ポフィラは痛みに呻くハウラを見やる。
そして、ゆっくりと裸足の足を踏み出した。
「動くな」
素早く立ち上がり、ペリドは真っ直ぐに歩み寄って来るポフィラに短剣を構えた。
戦士団の主軸であるペリドの様子を見て、まだ動ける周りの戦士もポフィラに武器を向ける。
だが、ポフィラは彼らの威嚇に眉ひとつ動かさず、そのまま歩き進める。
その毅然とした態度に、ペリドは短剣を構える腕を少しずつ下ろしていった。
ポフィラはとうとう、ペリドの目の前までやってきた。
「大丈夫だよ」
張り詰めていた表情を急に緩ませ、ポフィラは天使のように笑った。
彼女の柔らかい雰囲気に、戦士たちは次々に武器を下ろす。
ポフィラは浅い呼吸を繰り返すハウラの傍らに膝をつき、祈るように両手を組み合わせる。
風が止み、広い大地が静寂に包まれた。
両目を瞑ってただひたすらに祈りを捧げるポフィラを、戦士たちは食い入るように見つめる。
突然、大地が揺れ動き、ハウラの横たわる地面から、青々とした植物のツタが生えてきた。
そのツタは急速に成長し、まるで自我があるかのようにハウラの体を包み込む。
「ハ、ハウラ!」
ツタに全身を包まれた戦友の姿を目にし、堪らず慌てた声を出すペリド。
しかし、ポフィラの真剣な横顔に気が付き、心を鎮めてその場に留まった。
ドームを作ってハウラをすっかり隠してしまったツタは、ぴたりと動きを止めたかと思うと、鋭い棘がびっしりと出現し始めた。
これには誰もが顔を青くし、どよめきが起こる。
しかし、棘が手に刺さり、血が出るのも構わずに、そのツタを鷲づかんで引き剥がそうとするポフィラに、野次を飛ばす者は一人もいなかった。
ポフィラは華奢な体の全身を使い、固いツタをより分けてハウラの体を空気に晒す。
ポフィラは傷だらけの手でハウラを引っ張り出そうとするが、
「手伝って」
一人では重過ぎたようで、おもむろに振り返りペリドに言った。
ハッとなったペリドは慌てて駆け寄り、ポフィラと共にハウラの体をツタの中から引っ張り出した。
驚いたことに、ハウラの体は傷一つ無くなっていた。
皮膚が焼けた独特な臭いも消え去っている。
ツタから引き出されたハウラが、ゆっくりと目を開ける。
「ハウラ! お前……」
「あ、ああ。何ともない。すっかり傷も癒えてしまった」
目を丸くしてハウラは自分の体を隅々まで確認する。
「君は、一体……」
ハウラがポフィラにそんな質問を向けた時には、既にいくつものツタが周囲にドームを作り上げていた。
「助けに来たの。呼ばれたから」
ハウラの肌の状態を横目で確認しながら、ポフィラが言った。
周囲では戦士たちが各々の武器で慎重にツタのドームを壊し、傷の癒えた仲間を引っ張り出していた。
「呼ばれた? 一体誰に?」
ペリドがそう聞いた時だった。
戦士が一人、合流した。
「カルサ……。無事だったか!」
ペリドが片手を上げ、上機嫌にそう声を放つ。
ペリドの視線の先には、無表情に佇むカルサの姿があった。
その存在に気が付いたポフィラが、驚いたように目を見開く。
カルサは何も言わずに、おもむろにゆらりと足を踏み出し、ペリドたちの方へと近づいてきた。
すると、突然ポフィラが素早くペリドの前に出て、庇うように両手を広げ、カルサの前に立ちはだかった。
ポフィラの表情はすんと凪いでいて、感情が窺えない。
だが、明らかにカルサを警戒している。
「ポフィラ。安心しろ。そいつは俺たちの仲間だ」
ペリドがそう言った直後だった。
カルサがその口角を不気味に引き上げたかと思うと、凄まじい回し蹴りをポフィラに与えたのだ。
ポフィラは宙を舞うように横へと吹っ飛び、数十メートル先の大岩に勢いよく激突した。
その衝突音は広く轟き、大岩に酷いヒビが入るほどだった。
「な、何してんだカルサ!!」
ハウラを助けたポフィラに、何の前触れもなく危害を加えたカルサを、ペリドは憤怒の形相で睨み、怒鳴り声を上げた。
「……ははは。あっはは!」
カルサは突然、狂ったように高い声で笑い出した。
両手で顔を覆い、背中を反らせ、天を仰ぐように大笑いをしている。
「ペリド。様子が変だぞ」
ハウラがカルサを睨みながら冷静に言う。
「呪術でも食らったか?」
ハウラが神秘の力をその手に集め、戦いに備える。
「あのカルサが? 無いな。あり得ない」
ハウラの推測に、ペリドが苛立った声で返す。
ペリドは肩から背中に手を回すと、何かを掴む仕草をした。
まるで剣を抜き取るかのような動きを見せたペリドが、腰を低くしてその手を前に構えると、突如その手に握られた大剣が姿を現す。
「動かないでよ」
その直後、カルサが笑いを止め、低く声を吐き出した。
それと同時に、カルサやハウラは、一切体を動かすことができなくなる。
「……くっ」
悔しげに歯を食いしばるペリド。
周りの数百の戦友たちも、同じく身動きが取れないようだった。
「ほんと嫌。嫌な女。大嫌い。気に食わない。僕の事、直ぐに見抜きやがってさ。なんなの? 自分の方が優位だって言いたいの? ほんと、嫌な女」
普段の彼からは絶対に想像できないような妙な口調で、カルサは妖艶に瞳を光らせて笑う。
「カルサ……お前……」
唇を動かすのも一苦労な様子でペリドが声を掛ける。
硬直した体を無理に動かそうとして、ペリドの額には汗が滲んでいる。
「無駄だよ。僕の力は自然現象そのもの。絶対に抗えない」
得意げな顔をして、カルサが言った。
いや、カルサの姿をした誰かだ。
「正体を、現せ。カルサの姿をして、騙しやがって」
「騙す? 現せ? 何言ってるの? ほんと、人間って間抜けだよね」
怒りをあらわにしているペリドを、カルサの姿をしたそいつが嘲笑う。
「これが、僕の姿だよ。確かにカルサに似せたけどね。だって僕、カルサが大好きだからさ」
恍惚とした表情で自分の肩を抱き、そいつは言う。
「だからね……」
だが、次の瞬間には憎悪に満ちた顔で歩き出す。
その方向には、先ほど蹴り飛ばしたポフィラが意識を失って倒れている。
「だからね? 僕はこいつが気に入らないんだよ」
そいつはポフィラの髪を鷲掴み、乱暴に引きずる。
口から血を流しているポフィラは、かなりの距離を引きずられているというのに目覚める気配はない。
ポフィラはとうとうペリドの目の前に荒々しく放り出された。
「くそっ。しっかり、しろ!」
呼吸しているかも分からないポフィラに、ペリドは声を投げ掛ける。
ポフィラを痛めつける彼の発言から、ポフィラとカルサが知り合いであることは誰もが理解した。
それも、ただの顔見知りではなく、かなり深い関係であることが予想できる。
だが、カルサの顔をしたそいつとは、尋常ではないわだかまりがあるようだ。
足元に転がされたポフィラを見て、ペリドは胸をざわめかせる。
何としても守らなくてはならないと、ペリドは思った。
例え、彼女が親友であるカルサの知り合いでなくとも、仲間の恩人であることには変わりない。
ペリドはポフィラを足蹴にしているそいつを鋭く睨んだ。
だが、カルサの姿をしているそいつは、乾いた笑いを零したかと思うと、その右手を勢いよくポフィラの左胸に突き立てた。
その手はポフィラの皮膚を突き破り、激しく血しぶきが噴き上げさせた。
そいつはポフィラの心臓を掴み取ると、強引にぶちぶちと引きちぎり、彼女の体外へとそれを晒す。
「な……な……」
余りに衝撃的なものを直ぐ目の前で目撃してしまったため、ペリドは言葉を失う。
「僕はね、鬼なんだよ。カルサが大好きだけど、自然の味方をしている、力の弱った鬼なんだ」
まだ微かに波打っているポフィラの心臓を見せつけながら、そいつはペリドを馬鹿にしたように笑って言った。
「鬼、だと?」
ペリドは訝し気に眉をひそめて短く返す。
周囲の戦士たちは、自分を鬼だと言うそいつに恐れおののき、絶望の表情を浮かべている。
未だ敵意を剥き出しにして睨みを利かせている戦士は、今やペリドとハウラを含めた数名だけ。
だが、そんな彼らもポフィラの無残な姿に、思わずごくりと唾を飲む。
体を動かせないこの状況で、どう反撃をすればいいのか。
それを冷静に考え続けるのも、精神的に難しい。
「あ、やっと来たんだ」
不意に、鬼は満ち足りた表情をしてそう言った。
「会えてとても嬉しいよ。僕、ずっと待ってたんだ」
鬼が蕩けた視線を向ける先に、カルサの姿があった。
「カ、カルサ? 本物……か?」
いつの間にかそこに佇んでいた無表情のカルサに、ペリドは困惑の言葉を投げ掛ける。
いつこの場に到着したのか、どこからやって来たのか、誰も目にしていなかった。
「カルサ? どうしたの? 怒ってるの? どうして? 何をそんなに怒ってるの?」
鬼はわざとらしく小首を傾げて微笑む。
「ああ。これ?」
鬼は手の中の心臓をちらりと一瞥し、実に楽し気に笑みを漏らす。
「はい。あげる」
そして、無邪気な顔でその心臓を、ゴミを放るかのような手つきでカルサの方へと投げつけた。
カルサの足元に、ぐちゃりと音を立て、ポフィラの心臓が地面に落下する。
カルサは真っ暗な瞳を地に落ちた心臓に向けてから、ゆっくりと自分と同じ姿をした鬼へと戻す。
「カルサも、動かないでね」
鬼が笑いながら言う。
無表情だが、カルサの怒りは手に取るようにペリドには感じ取ることができる。
「凄いね、カルサ! ここは人質でいっぱいだ!」
鬼はからかうようにあどけなく笑い、上機嫌に両手を広げてくるくるとステップを踏んだ。
「カルサ。僕たちのところに戻ってよ。また一緒にこの女を痛めつけて遊ぼう? こいつらに未練があるんなら、僕が全員始末してあげるから」
愛おし気に微笑んで、鬼は後ろに手を組み、肩をすくめる。
ペリドやハウラは、不思議そうにカルサの姿をした鬼を見つめる。
何故、カルサの怒りを掻き立てるような発言ばかりをするのか、理解ができないのだ。
カルサが好きだと言う割に、カルサという男を何も分かっていない。
ペリドがそう思い、小さく含み笑いをした。
既にペリドは、カルサが戦闘態勢に入ったことに気が付いたからだった。
目にも止まらぬ速さでカルサはその場から駆け出し、地面に刺さっていた誰のものかも分からない刀を手にすると、自分と瓜二つの鬼の体を斜めに切り裂いた。
「……え?」
鬼は呆気にとられた顔をして、小さく困惑の声を漏らす。
傷口から勢いよく血が流れ出る。
一つ咳をすれば、一緒に鮮血が吐き出された。
「な、なんで……どうして……」
涙目で震えた声を出す鬼を見て、ペリドは心の中でざまあみろ呟いた。
体の硬直が解け、ペリドもハウラも素早く武器を構える。
「馬鹿か、あいつ。仲間を傷つけられて、カルサがやり返さないなんて思ったのかよ」
口角を吊り上げてペリドが呟いたその直後だった。
何の前触れもなく、カルサの体から勢いよく血しぶきが上がった。
カルサの体には、鬼に付けた傷と、全く同じ傷が浮かび上がっていた。
深い傷の痛みに顔を歪め、堪らずカルサは片膝をつく。
「ど、どういうことだ?」
訳が分からず、酷く動揺した様子でペリドが言葉を漏らす。
「そんな……どうして……。カルサは、こんなこと、する人じゃなかったのに……。自分も傷つくと分かってて、僕に危害を加えるなんて……そんなことする人じゃなかったのに……」
だが、誰よりも動揺しているのはカルサに切りつけられた鬼の方だった。
「全部、全部……あの女のせいだ。あの女がカルサを変えちゃったんだ……」
血を流し、呆然と佇み、悔し気な顔で鬼はぼそぼそと呟く。
「ゲホッ……」
カルサが吐血しながらも、刀を支えにして立ち上がろうとする。
その姿に、ペリドやハウラ、そして大勢の仲間が一斉に奮起する。
それに気が付いた鬼は、唇を噛み締め、地面に横たわっているポフィラを睨みつけた。
「僕は、許さないから。そいつのこと。もちろんカルサも。でも、いつまでも大好きなんだよ?
だから諦めない。カルサは、僕に一生許しを乞いながら、隣にいなきゃいけないんだよ」
負け惜しむかのようにそう言った鬼に、ペリドが大剣を振り下ろした。
しかし、その剣はただ空を切っただけだった。
一瞬のうちに、鬼は忽然と姿を消した。
少しのどよめきが起こったが、直ぐに静寂に包まれた。
カルサが、ふらふらと虚ろな目をして、地面の上に倒れているポフィラの元へ進んでいった。
崩れるようにポフィラの横に座り込み、カルサはポフィラの頬を優しく撫でた。
そして、歯ぎしりの音がはっきりと聞こえそうなほど強く奥歯を噛み締めると、
「う、あああああああああ!!!」
人目もはばからずに大声で叫んだ。
濁った音を含むその叫声は、ビリビリと空気を震わせた。
カルサの悲痛な叫びに、ペリドは自分の無力さを痛感したのだった。
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