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会社に着くと鬼の稲葉は本物の鬼の顔になった。
責任感という重圧を背負う瞬間を初めて見たのだが、考えてみると電車の中で見ていた稲葉課長はいつもよりも優しい顔だったような気がする。
ただ、最初はゴミを見るような目で見られてしまったが。
「カモノハシ!また発注計画がズレてるじゃないか」
「すみません!」
突き返される書類は何度目だろうか。眉間に深い皺を寄せて睨まれるとオシッコチビっちゃうんじゃないかと毎度思う。チビったことはまだ無い。
「なんだ倫也、またミスったの?」
「なかむら〜」
同僚の仲村は苦笑いして品質管理らしい仕事をする。俺はと言えば未だ発注計画だ。
予測して計画して発注の計画を立てる。重要なのは、まだ計画で実際に発注するのは先の話だということ。そんな単純作業も手書きでもないのに欄を間違えるという凡ミスどころか凡凡凡。
「ボーン、ボーン、ボーン……」
「随分と余裕じゃないか、カモノハシ」
「あ?あの、いや、あの……」
「発注計画もろくに出来なくて、お前はいったい何が出来るんだ?」
「あ……すみ、」
「お前のこの書類を見て動く人間がいるんだよ!」
「はい」
「お前がミスれば動く人間もミスるんだよ、それ、分かってんのか?ああ?」
「はいっ!すみません!」
同僚たちは見て見ぬ振りをしてくれて、でも見えているのが分かるから俺はますます立ち場が無くなる。
怖い顔した稲葉課長は怒るけれど長くダラダラと説教はしない。短く、そして鋭利な刃物で一度突き刺すと放置する愉快犯タイプの男、鬼の稲葉恐るべし。
それに言っていることは少しも間違えていない、だから自分のことがとても嫌いになってしまう。いや、自分のことが嫌いってのもちょっと違うな。自分は悪くないとは思わないけれど、自分が嫌いなんて思ったことはないかも。嫌いは上から目線の言葉だ。自分を嫌いって言うのも自分じゃん、自分を嫌いって自分で言ってもそれって上から見た自分だから……。
「たまごが先か、ニワトリが先か……ニワトリがいなきゃたまごは産まれねぇべ、たまごがなきゃニワトリも産まれねぇべし、もう好きとか嫌いとか全部含めて、ニワトリ」
「おい、カモノハシ……」
「へい」
「なんだよ、へいって」
「すみません!!今すぐやりますんで!!」
ああ、なんで稲葉課長のデスクは目の前なんだ。
そうか、俺の運はきっとママのお腹の中にある。そう言えば男がママって言うと気持ち悪いと言われるけど、なぜ女はいいんだ。女性蔑視とか言いながら女だって男に求めているんだ、男らしいと言うものを。
「俺も早く男になりた〜い」
「カモノハシ、頼むからいい加減にしてくれ」
「はい!すみません!」
やばいやばい、口から出ちゃうところだった。ん?出ているのだろうか?出たから稲葉課長は怒ったのかな?でもな、稲葉課長はいつも怒ってるから分からないんだよなあ。
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