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漆黒の木々とその隙間から見える満天の星空を見上げたまま雫は目を覚ました。頬を撫でる草の感触が夢現の頭を覚醒させていく。身体は芯から冷え切り、指先にはほとんど感覚が無かった。
…ここはどこだろう。
固い地面に寝ていたからかあちこち痛む体を摩りながら雫はゆっくりと体を起こした。屋外だというのに雫は靴を履いていない。裸足で歩いたのか足の甲には傷が幾つも走っていたがそれよりも喉が痛く、雫は喉元に手を当てた。と、肩口をさらりと白髪が流れ落ち雫はびくりと体を跳ね上げた。雫は生まれてこの方黒色の髪を染めた事もなかったものでそれがまさか自分の髪とは思わず強く引いてしまう。
「いっ…!」
口から出たのは酷く嗄れた呻き声だった。頭皮が引かれる痛みを耐え雫は再度喉元に手を当てた。触れた所がことさらに痛み、ずっと何かに塞がれているような圧迫感、そして少し凹凸があるが何かの痕だろうか。
もう少し確かめるため、喉を張ろうと上を見上げた雫は木に掛かる縄が目に入りドクンと心臓が跳ねたのを感じた。途端に思い出したのは、『ある誰かの』記憶だった。
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海と肥沃な土地を有す大国エリディアの東の端、山に面するエリディアで一番大きな領地であるフェーニイ。その地を統べるロイズ・フェーニイは妻と二人の息子、可愛らしい娘がいる完璧なる公爵だった。だがそれもある日を境に狂い出してしまう。
とある日ロイズのもとに小さな女の子を連れた女性が訪れた。彼女が言うには「この子はあなたの子」であり「生活に苦しく、補助をしてほしい」との事。
よくよく女性の話を聞くと、女性はある年の大きな祭りの際に町を訪れたロイズに一目惚れし、護衛を避け宿の部屋へと侵入し、ロイズへと薬を盛って一夜関係を作ったという。当然ロイズにその記憶は無く妄言とも取れたがロイズはその話を信じ己の恥を隠すかのように女性とその娘を屋敷の裏手の離れへと隠すことにした。なぜか、それは女性が連れてきた娘がフェーニイの血筋と分かる特徴を持っていたからだ。
フェーニイ家の人間には二つ、常人とは異なる特徴があった。一つ、フェーニイの血を持つ者は真っ白な髪を持って産まれてくる事。一つ、フェーニイの血はかつて精霊との交わりの歴史が刻まれており『聖なる力』を持つという事。
母親に促され自身の周りに青白く光る円盤を幾つも浮かばせた白髪の少女を前に、ロイズはフェーニイの者ではないと突き返す事は出来なかった。
娘の名はエルザと言った。この時まだ齢6つの幼い少女だった。
エルザと母親は決して離れの外へは出てはいけないと言い含められていたがそれはエルザがフェーニイに来て3年後に撤回される。エルザの母が亡くなったのだ。元よりエルザを育てるために身売りまでしていたのだが客から移された病に身体を蝕まれそう長くはない命だった。
母親の死後、エルザは館へと招かれた。だがそれはロイズがエルザに同情したからでもフェーニイ家の一員として認めたからでもなかった。エルザは義妹ステラの身代わりとして嫁ぐために最低限の教育を受ける必要があったのだ。
相手はエリディア国の第二皇子ユリウス。それというのもフェーニイ家はこのエリディア国の皇室をもが一目置いているものらしい。財力もあり肥沃な土地が広く続くフェーニイ領は正直なところ一国として独立しても問題ない力を持っていたが、エリディア皇帝としてはそんなフェーニイ領を『聖なる力』を持つフェーニイ家共々手放したくはなかった。そこで皇帝はフェーニイ領の税を下げたり事あるごとに贈り物をしたりと露骨に贔屓をしていたのだがその一つとして「フェーニイの娘を皇室に迎え入れたい」という申し出をしていた。ロイズとしては一領地に留まらずエリディア国政に関われる可能性のあるその申し出を受け入れたいところでもあった。だがロイズにとってステラは大事な大事な愛娘。皇室に入れるとはいえ政略結婚を推し進めたいとは思えなかった。
ロイズはそこでふと思い出した。ああそういえばもう一人、忌々しくもフェーニイの血を継いだ女がいたじゃないかと。ステラと歳一つ違いのそいつであれば万が一皇室に人質紛いの事をされたとて切り捨てることも出来る。「今すぐそいつを屋敷に連れて来い」「せめて皇子に恥じない程度の教育はさせろ」「死ななければ何をしてもいい、言う事をきかせるんだ」。
かくしてエルザはエルザ・フェーニイとしてフェーニイ家に迎え入れられたが愛情を感じられるような生活など一欠片も与えられないまま何年も過ごしてきた。
それでもエルザは笑顔を絶やさなかった。それは優しかった産みの親に誇れるように生きたかったエルザの意地でもあったがエルザ自身第二皇子ユリウスにふさわしい淑女になりたかったからでもある。
政略結婚とは言われたものの、エルザは本当にユリウスに恋をしていた。初めて会った日の事はよく覚えている。煌めく金の瞳を潤ませて、ユリウスは頬を赤くさせながらエルザの手を取って挨拶をしてくれた。優しいユリウスの傍に居られるならエルザはなんでも頑張れた。少しでも間違いがあると鞭で叩く家庭教師にも微笑んだし、必要以上にエルザに嫌な事をしてくるメイド達の所業にも耐えた。
そうして貴族達を集めてのフェーニイの屋敷での婚約発表の披露宴で、エルザは、ユリウスから婚約の破棄を突きつけられた。
「僕はエルザ・フェーニイを愛してなどいない。僕の本当の愛はここにあったのだ!ここにいる、ステラ・フェーニイのもとに!」
ユリウスは執拗にエルザを詰った。
「君の近くに行かなければならなくなる度に僕は吐き気を耐えるのが大変だったよ。穢らわしい、君も、君の母親も。最低な人間に充てがわれた僕の絶望は計り知れない。だがそれもステラが許してくれた。僕はもう自分を偽らない。僕が愛するのはステラだけだ。」
この日初めてエルザは泣いた。どれだけ辛い思いをしようが寂しい夜がこようがグッと堪えて今日まできたエルザの目から溢れ出す涙はもう止まる事はなかった。
弾かれるように披露宴を抜けて、自室で一人、泣いて、泣いて、夜が更けてもまだ泣き続けて。涙が枯れる頃になってエルザはふらりと屋敷を出た。歩き辛いヒールの靴を脱ぎ捨てたが砂利道を行くのに履き替えようという意識などなかった。
「今度は普通の人になりたいわ。父と母に愛され、苦しみも分かち合える兄妹たちがいて、そこで私は普通の恋愛がしたい。だから今は、」
おやすみなさい。ポツリと呟いた言葉と共にエルザは首に縄をかけると倒れるように木の枝から落ちていった。
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「ッ、ッ…、ぅ、ぐぅ…」
ギュッと唇を噛み締めて雫は泣いた。エルザの悲しい気持ちが分かるのと同時に雫自身の気持ちが悔しいと強く感じていた。
エルザには味方がいなかった。雫がその場にいたならエルザの一番の味方になれたのに。もう遅いと知りながらも雫は自身の体を両腕でしっかり抱きしめた。エルザを抱きしめるように。エルザに雫の気持ちが伝わりますようにと。
空が白み出してようやく雫は泣き止んだ。はっきりと聞こえるほど腹が鳴ったことでエルザの境遇は今の雫と無関係では無いことに気がついたのだった。
エルザの体に雫が入っているというのなら雫の体はどうなっているのだろう。だがそれについては雫は一つ確信めいたものがある。
雫は元の世界で亡くなったのだろう。この世界で目覚める直前の記憶を辿るに死因もはっきりと分かる。あまり深く思い出したくないほどの恐怖心をも思い出して雫は首を振って記憶を漁るのを止めた。未練が無いわけではなかったがあの時の雫はちょうど色々な事に区切りがついてしまって先々の身の振り方を悩んでいた時だったので案外異世界へ転生したという事実はすんなりと受け止められている。
だが当の転生のスタートが上手くいっていないのは問題でもあった。一つ案としてはこのままフェーニイの屋敷から逃げ出すことだったがそれは無理だと雫は頭を抱えた。
それというのも雫の持つエルザの記憶だが、ユリウスとの結婚に向けて王都の歴史を学んだり皇族の作法を学んだりはしていたがその他に関しては皆無でありフェーニイの屋敷の周辺に何があるかすら分かっていなかった。ほんの幼い頃に母親と過ごしていた町の記憶はあるもののなんという町でどのようにしてフェーニイの屋敷まで来たのかは曖昧だ。闇雲に歩いたとして行き倒れずに町まで着けるだろうか。とはいえエルザは昨晩から何も食べておらず腹が減っており、無一文で、そのうえ裸足のままだというのにこのままここを遠ざかるのは得策とは言えなかった。
今戻って準備をして、屋敷の者が起きてくるまでに発つという案もあるが先の通りエルザには私財がほとんどなく町に出れたとして物を買うことが出来ない。身につけている物は最小限エルザの物ではあったがユリウスと会う時にのみフェーニイ家の貴金属を付けることを許される程度でエルザの手持ちで高値で売れるような物はなかった。かといってフェーニイ家から金目の物を盗むわけにもいかない。良心が咎めるというような話ではなくフェーニイ家に雫、もといエルザを罰せられる真っ当な理由を与えてしまうわけにはいかなかった。
帰ろう。少し悩んで雫はそう結論を出した。ユリウスとの政略結婚のために生かされていたと言っても過言ではないがロイズは少なくともほとぼりが冷めるまでしばらくは雫を殺しはしないだろう。フェーニイの屋敷でのユリウスによる婚約破棄は噂好きの貴族たちの間でしばらく話題になるはずだ。それも今後のエルザの動向も踏まえて。
婚約発表という場を設けたからには結婚は確実と踏んでロイズは今まで隠し通していたエルザを公の場に出した。そのエルザを始末するとしても今は注目が集まりすぎている。完璧主義で小心者のロイズが今すぐ攻撃的な行動を起こすことはない。
周辺の環境を確認する、路銀を整える、それが雫がすぐにでもやらなければならないこと。屋敷を出るのに出来るだけ早いに越したことはないが焦って行動したせいで準備不足で命を落とすのは避けたかった。
まあ、もう死んではいるか。
雫もエルザも既に各々別の理由で亡くなっている。それがどうしてもう一度別の体でやり直せることになったのかは不明だがだからといって『やるべきことがあるから』とは雫には思えなかった。
行動の原動力となるのは死にたくないという気持ち一つ。雫とて前世を死にたいと思って生きていたわけではない。不慮の事故だった。今ここで命があるというのなら雫は今度こそ生きたいと強く思う。
その気持ちに呼応するかのように雫の髪が光り出した。
「えっ、ちょ、なにこれ…」
髪から体全体へ青白い光が移っていく。思わず声を上げた雫は声がすんなり出せることに驚いて喉に手を当てた。痛くない。縄が食い込んだ跡もなくなっている。
スゥッと光が足下から地面へ流れていくと雫は足についていた切り傷も消えていることに気がついた。傷を癒す不思議な力、フェーニイ家の持つ『聖なる力』の一つだ。雫もエルザの体を借りて『聖なる力』が使える。これは身を守るためにもかなりありがたい力だ。
雫は静かに両手を握りしめて目を閉じた。ありがとう、それとおやすみなさいと。エルザはもう苦しまなくていい。後は雫に任せてゆっくりと温かい場所で休んでいてほしい。
ザリ、と踏んだ砂利の痛みに雫は顔を顰める。エルザはもうここに来る頃には痛みなどどうでもよくなっていたのだろう。そんなエルザの心の傷も全て癒やされますように。ゆっくりと目を開けた雫は真っ直ぐに屋敷への道を戻っていった。
雫は今この時からエルザとして生き、エルザの一番の味方として生きることを強く誓うのだった。
♦︎ ♦︎
だだっ広い食堂で一人エルザは食事を取っていた。厨房の方からチラチラと視線を感じるもそれを全て無視する。コソコソと小声で話す声も届いたがどれもエルザ本人に直接言いに来るわけでもないのでエルザも気にはしない。まあ直接文句を言いにくるのは無理だろう、数日前にそうやってエルザに突っかかってきたメイドたちは手を挙げられて理不尽に叩かれたのだから。
そうした理由としては二つ。一つは「生前の」エルザがしたように無視をしたとして過剰に干渉してくるメイドたちは虐めるのをやめてくれないこと。足をかけられたり掃除中のバケツの水をわざと引っ掛けられることはよくあったがどれもエルザは反撃をしてこないと舐めてかかられていた。怒ったり泣いたりするよりも理不尽な暴力の方が抑止には効果的だ、とこの場合そう結論付けたこと。
もう一つはエルザには公爵令嬢としての地位などないこと。『聖なる力』を持ち、フェーニイと名乗ってはいるもののエルザはロイズを筆頭にフェーニイ家の者たちに認められていない。だからエルザが冷静に話をしようともエルザを虐めてくるメイドたちを罰せられる権限はないのだ。だからこそ権力に代わってエルザの立ち位置を上げるものとして手っ取り早いのが暴力だった。
人を頬をあんなに強く叩いたことなどエルザは一度もない。強く叩けば叩くほど自分の手も痛んだがエルザは怯んだことを面に出さないように必死に耐えた。一度だけなら「反撃だなんて、たまたまよね」と、二度も叩かれればバカでもわかる。エルザはもう大人しく虐められるか弱い女性ではない。髪を光らせて『聖なる力』をチラつかせればそれ以降もう誰もエルザに近づいてはこなくなった。
幸運だったのはエルザの強気な変化は婚約破棄をされて自棄になったせいだと大勢が勘違いしたことと、エルザが屋敷で横暴に振る舞ったとしてもそれを咎めるフェーニイ家の者がほとんど屋敷にいなかったことだ。
エルザが婚約破棄をされ披露宴を飛び出したあとユリウスは正式にステラとの婚約を発表したらしい。そしてそのままステラはユリウスと共に王都へと旅立った。
ユリウスがステラを選んだことはロイズにとっても想定外だろう。ユリウスとステラの事を認めるのか認めないのかはエルザにとってはどうでもいい話であるがステラが皇室に入るというのは普通の平民のように簡単ではないことは確かだ。
そしてあの夜に起こった混乱はもう一つ。ユリウスが披露宴の場でエルザとエルザの母親を罵倒したこと。エルザの母親はもちろんロイズの妻キャロルのことではない。だが表上はロイズとキャロルの間に出来た娘ということになっているものでユリウスのこの発言はキャロルに火の粉が降り注ぐものになった。『穢らわしい』までと皇子に言わせたあのキャロル・フェーニイは一体何をしたのだろう。彼女はステラ・フェーニイの母親でもあるはずだが?と。
ロイズ、キャロル、そしてフェーニイ家の長兄であるセドはステラの説得とキャロルに対する噂の火消しのために王都に行きまだ戻る目処も経っていなかった。
エルザはそっと椅子から立ち上がった。静かに部屋を出て行くエルザを使用人たちが怯えた目で見てくるのを横目に真っ直ぐに離れへと向かう。長くてあと数日もあればここから逃げ出せる。
主の不在をこれ幸いにと勝手に書斎に入って色々と調べさせてもらったのでこの周辺の地図の写しはすでに手元にあった。母親の死後一度も戻ることのなかった離れに行くと少ないながらも母親の持っていた金銭や売れそうな貴金属も見つかった。路銀にするには心許ないが屋敷を出るには十分だ。この後エルザは一旦ここから二つほど村を超えた先の町に行くことになる。
ロイズが居ないのをいいことにエルザは目的の町の町長からの招待状をこっそりと拝借していた。エルザが本当はフェーニイ家で虐げられているものと知らない町長の下ならばエルザがフェーニイ領地から出るまでに必要な準備は整えられるだろう。招待状は別に盗んだわけではない、なぜならロイズがゴミとして処分するように仕分けられた手紙の山の中にあったのだから。中身を見もしていないロイズの無礼に代わってフェーニイ家のエルザが出向くのになんの問題も起こるわけではない。あと問題とするならばーーー
「おい。貴様そこで何をしている。」
冷たく、あからさまに憎々しげにかけられた声にエルザは足を止めた。エルザより少し歳上の、フェーニイ家の次兄アンデン。混乱するフェーニイ家の屋敷を全員で留守にするわけにはいかないとロイズに置いていかれた足手まとい。本人は「フェーニイ家を任された」と思い込んでいるらしいが歳の割に落ち着きがなく腕っ節だけの男だ。
エルザは小さく頭を下げた。使用人たちは無視できてもフェーニイ家の者にそんな態度を取るわけにはいかない。ご機嫌ようアンデン様、と。礼儀正しく挨拶をしてからエルザは緊張を隠すようにゆっくりと「庭園を散歩していました。」と続けた。
「はっ、散歩?貴様がか?」
「ええ。今日はいいお天気ですので。」
「何を企んでる。」
アンデンの髪がギラギラと輝く。怯むな!
エルザは自分自身を叱責しながら震えを抑え込んだ。真っ直ぐにアンデンの瞳を見つめて優しく微笑みかける。
「いいえ何も?」
生前のエルザは屋敷に招かれた後もほとんど部屋から出る事はなかった。食事も残飯同然の物を一日二回ドアの前に置かれるだけで今日のように昼食を食べに食堂に出る事もなく、エルザの行動を知っているものからしたら訝しんでもおかしくないことだった。
だがエルザはアンデンに疑惑の目を向けられるようなことはしていない。少なくとも今この時は。
しばらく睨み合いが続いたが不意にアンデンは舌打ちをすると踵を返して屋敷へと戻っていった。その背が小さくなる頃になってエルザは一気に緊張が解けてその場にへたり込んでしまう。冷や汗で背が濡れて気持ちが悪かった。
エルザは『聖なる力』を完全には使いこなせていない。エルザが使えるのは自分自身の怪我を治すことだけだ。
この『聖なる力』というのも使いようによっては敵を貫く槍にも、攻撃を防ぐ盾にもなれるのだが今のエルザはそのどちらも出来なかった。傷を治す時だけ、力強く『生きたい』と願えば使えたがそれも最初の一度だけは上手くいったものの二回目以降は傷の治りは遅くなかなか思い通りに力を使いこなせていなかった。力を使おうとするだけで髪は光るのでメイド達を脅すぐらいには使えたがそれだけだ。エルザの懸念は今後危ない目に遭った時に自分の身を守るすべがないと言うことだった。
アンデンが戻ってこないうちにそそくさとエルザは離れの扉を開けて中へと滑り込んだ。この血の気の引いた青白い顔を誰にも見せるわけにはいかない。少なくともエルザがこの屋敷を出るまではひたすら気丈に振る舞わなければ。
ヒビ割れた壁が目立つ冷たい平屋の建物はいつも土の匂いがする。大きく息を吸い込んで嗅ぎ慣れた匂いに心を落ち着かせたエルザはここ数日毎日のようにやっている片付けをまた再開させた。
この場所はフェーニイ家の物置のような所だ。エルザとその母親が使っていたのは手前の一部屋二部屋のみだったがその奥に埃を被った家具が沢山置いてあった。
そこから出来るだけ金になりそうな小物のみを選り分けていく作業だ。ほんの一握だが数日の成果でコイン数枚と真珠のネックレスを一つ見つけていた。
ふと、汚れた窓から差し込む淡い光の中でもキラリと輝くものを見つけてエルザはそちらへと歩みよる。薄汚れた円盤だ。土埃をはたくと中央に嵌め込まれた青色の宝石がキラリと光る。
裏返してみるとそれは鏡だった。曇った鏡面には何も写っておらずエルザは服の裾で鏡を磨いた。
「…?」
何も映らない。暗闇が写るばかりでエルザの顔も見えない。不思議に思ってもう一度磨いて覗き込んだエルザはそこに写る人物に驚いて鏡を落としそうになった。
鏡に写っていたのは黒髪の女性だ。エルザと同じように驚いて見開いた目を何度もパチパチと瞬かせる。鏡じゃない?と見つめたエルザはその顔に思い当たり小さく呟いた。
「雫。…明石、雫……」
鏡の向こうから震える声で雫が答えた。
『エルザ?エルザ・フェーニイなの?』
雫の両手が自身の耳たぶへと動き軽く引っ張る。その不思議な癖にエルザは小さく身を震わせた。記憶として残っている、生前のエルザがよくやっていてはみっともないと叱責されたその治らない癖。
なら目の前の彼女は、雫ではなく。
「あなたが本当の『エルザ』…?私の体にいるあなたは『エルザ』?」
『ええ。エルザよ!私…あなたは、あなたは『雫』なのね?私の体で…生きていてくれたのね…』
ほたほたと雫から大粒の涙が溢れだす。「生きていてくれた」だなんて。それを言うのはこちらの方だとエルザも泣いた。
『エルザ』は生きていた。いや一度死んで雫として転生しなおした。雫とエルザは死を通してお互いの体に入れ替わったのだ。エルザは鏡に向かって叫ぶように『エルザ』を呼んだ。ずっとずっと思っていた事を吐き出すように。
「『エルザ』!私あなたにどうしても言いたいことがあったの!私ね、私はあなたの味方よ!あなたは間違ってない!あんなクズ男のために死ななくてもよかったんだから!」
いや最後のは言い過ぎたかもしれない。あんなクズでも『エルザ』にとっては本当に愛した男性だったのだから。
雫は驚いたように口元に手を当て、もう一度泣き、赤らんだ顔でエルザへ花が咲くように笑んだ。
『そうね!私もそう思うわ!』
全てを流し切った雫の笑顔を見て、エルザもこの姿になって初めて幸せそうな笑顔で笑ったのだった。
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