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オレンジ色の夕日はいつの間にか沈んでいた。
小学生のころの友人の家がこの近くにあって、その住宅街の中にとてもきれいな桜並木があったことを散歩の途中に思い出したのだ。
小学生の足でも徒歩で行くことができたのだからそれほど時間はかからないだろう。そう思って歩き慣れた道を外れたのだ。
少し遠回りにはなったけれど、10年以上前の記憶が景色と共に思い出されて、目当ての桜の花を見ることができた。大きく枝を広げた満開の桜。
思い出の中と変わらず白い花たちは美しかった。
桜を見る、という目的は達成されたわけではあるが、久しぶりに遠くまで歩いてきたのだからもう少し探検してみよう。懐かしい場所で、すこし子供のころに戻ったような気がしていたのかもしれない。大人になってからは好奇心の赴くままに行動することがほとんどなくなってしまった。先の事ばかり考えて不安になって、リスクのある選択肢は選ばない。ほとんどの人間はそういうものかもしれない。
私の住むアパートよりずいぶん高い位置にあるこの住宅街はバブル期に開発が進んだ場所だそうで、比較的大きな凝った外観の家が多いが、それももう30年ほど前の話だ。どこか寂れた印象を受ける静かな住宅街だった。山を切り開かれた土地らしく、竹藪や畑が家々の並ぶ中に多く残されている。
ガレージが並ぶ道があって、その道をさらに行くと神社がある。その神社の敷地を抜けて、長い坂を下りれば、私の住むアパートに続く道に出ることができたはずだ。
歩いていればそのうち見知った景色に出会えるだろうとやみくもに進んでいた。
太陽が消えた後、余韻を残すこともなく冷たくなってくる
薄青い空には見逃してしまいそうなくらい細い月。まだ星が見えるほど暗くはない。そろそろ帰り道を見つけたかった。街灯もまばらな道では暗くなってしまったら本当に帰り道が分からなくなってしまうし。人気のない場所は少し気味が悪かった。
ようやく見覚えのある道に出ることができてほっとした気持ちで竹藪の脇を歩いていた。ふと、反対側に立つ古い民家に目がいった。
木造の築50年は経っているだろう家の引き戸は開かれており、その暗がりの中で、一瞬何かが光った。夜、猫の目が車のヘッドライトで光るような、そういう光だ。
その瞬間、悪寒が走り身体が強張った。何かおかしい。心臓が鼓動を速める。
「どうしたんだい、こんな時間に」
聞いたこともないくらい優しくて、甘い声だった。
闇の中から現れたのは人の形をした何かだった。こんなに美しい人間が、人間であるわけがない。
これ以上近づいてはいけない。逃げなくては。理性が、本能が警鐘を鳴らしている。でも、もっと近づきたい、見ていたい、声を聴きたい。抗いがたい欲望だった。破滅と後悔の結末が待っていたってどうでもいい、この衝動に従いたい。
ふふっ、と頭の中が溶けてしまいそうなほどの妖艶な笑い声が聞こえた。
木々が茂る神社の敷地に駆け込んだ、ここまで逃げれば追ってくることはないだろう。そもそも、あれは自分から人間を捕まえに来るというたぐいのものではない気がする。
明かりのともった拝殿の前へたどり着いたところでようやく足を止めた。
見上げれば満開の桜が濃紺の夜空を覆っていた。
桜を見ると、何物にも成れないまま、また新しい年が始まってしまうのかと、強い焦燥と不安に包まれる。それでも、見上げてしまうのだ。
私は踵を返した。
代り映えのしない将来に対して何の希望も抱けない、惰性で生き延びるだけの日々だった。
あの美しいものに殺されるのなら私も特別になれる。少なくとも老いて一人で惨めに死ぬよりはずっといい。
26年の人生を終わらせるにはいい日だと思った。
「おや、戻ってきてくれたんだね」
なんて甘美な響き。戻ってくることを確信していたかのような言い方。やはりこの民家の敷地の外に出ることはできないのだろう。庭先に立ち、極上の笑みを私に向ける。その瞳は金色に光っているように見えた。
私は錆びた門に手をかけて、この美しいものの領域に踏み込んだ。
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