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どこへでもいいから、逃げたいと思った。願わくば、恋という言葉なんて知る由もなかった、幼い頃に戻りたいとさえ思った。そうだ。あたしたちずっと、子供のままでいられればよかったのに。
夕陽に染まる河川敷の土手を走る。宝石をばらまいたみたいにきらめく川の水面に、子供の頃の思い出が走馬灯のように映し出されていく。そのすべてに、奏汰の姿があった。
子供の頃の奏汰はヒョロヒョロのチビで、何かに付けてベソをかいているような放っておけない男の子だった。あたしは男勝りな腕白少女で、泣き虫な奏汰を守ってあげなければと、お姉さんぶって世話を焼いていた。
奏汰はいつだってあたしを探していた。呼んでもいないのに気がつくと隣にいて、つぐみちゃん、つぐみちゃん、と言いながらあたしの上着の裾を握りしめて笑っている。幼いあたしは、そのことにひそかな誇らしさを感じていた。
奏汰が近所のガキ大将にタンコブを一つ作られた時、あたしはそいつに雪だるま型のタンコブを作りかえした。
奏汰が大きな蜂に追いかけられて絶叫していた時、あたしは道端の石をトルネード投法で放ち、蜂を撃退した
あたしに守られるたびに、「ごめんね」と奏汰は言った。悔しそうな、歯がゆそうな、そんな表情で。
「いいんだよ」とあたしはいつも答えた。
「奏汰はそのままでいいんだ。あたしが一生、守ってあげる。だから大人になったら結婚しようね」
そうやってあたしたちは、いつからかお互いなくてはならない存在になっていた。お互いを肯定し合える存在を見つけると、毎日がたまらなく美しく見えるようになる。それを教えてくれたのが、奏汰だった。
だけどもう、そんな二人ではない。奏汰はあたしなんかがいなくても、大丈夫なんだ。幼い頃の幻影に縛られているのは、きっとあたしだけだ。
目の前に大きな橋が見えてきた。子供の頃、あの橋の下にはあたしたちのダンボール製の秘密基地があって、よく夕方まで時間を潰していたものだった。
あいつはもう、そんなこと忘れちゃってるんだろうな。
そう考えながらその場所に目を奪われていると、不意に足元がもつれて世界が反転した。躓いた。なれないサンダルのせいだ。芝生の斜面を転がり落ち、生い茂る雑草の中に体が飲み込まれる。
「いったぁ……」
右足首に痛みが走る。足を庇いながら立ち上がり、スカートの土を払い、よろよろと歩き出す。たどり着いた橋の下で、あたしは身体を丸めて泣いた。
「つら……」
痛い、怖い、寂しい。こんなとき、誰の名前を呼べばいいのだろう?
あたしにとってそんな人、結局は一人しかいない。でも、もうこれで最後にしよう、と思いながらあたしはつぶやいた。
「奏汰……」
「――つぐみ!」
顔を上げると、奏汰がいた。ああ、やっぱりとあたしは思った。
奏汰はあたしが呼べばきてくれる。まるで、絶対に叶うおまじないだ。だけどもう、いっそのこと来なければ区切りをつけられたのに、と自分勝手ないらだちを覚えた。
「こんなところにいたのか」
きっと走りながらあたしを探し回っていたのだろう。奏汰は、息を整えながら安堵の表情を浮かべる。
「ああ、ここ秘密基地の場所だよな? 久しぶりに来たよ」
「なんで……」とあたしは言った。
「なんで来ちゃうんだよ!」
涙も隠さずにあたしは叫んだ。
「なんで泣いてるんだ?」
「泣いてない!」
「もしかして怒ってるのか?」
「怒ってない!」
「じゃあ、どうしたんだよ」
「わからなくなったの! あたしたち二人の関係が! なんで付き合ってもないのに、いつも一緒にいるの? なんで、好きでもない奏汰のことを考えて、こんなに胸が苦しくなるの? 奏汰にとって、あたしってなんなの?」
「なんなのって、おまえ……」と奏汰はポカンとした顔で言った。
「だって、俺たち結婚するんだろ? いつも一緒にいなくてどうするんだよ」
思いがけないセリフに鼓動が跳ねる。奏汰の顔は真剣そのもので、冗談を言っているようには見えない。
「結婚って……覚えてたの?」
「そりゃ、覚えてるよ。一生、守ってあげるって、つぐみが言ったんだぜ。でもさ、それじゃ駄目なんだ。俺もつぐみを守れるようにならなくちゃ」
ごめんね、と繰り返していた幼い日の奏汰の姿を思い出す。ありがとう、じゃなくて、ごめんね。あの言葉には、そんな想いが込められていたのだろうか。
「まあ、恋愛とか結婚とかまだわからないよ。だけど、その人を守りたいとか、その人の側にいたいとか、そういう気持ちで繋がってるって、すごく嬉しいじゃん」
俺にとってそう思える人って、つぐみしかいないんだよね、と奏汰は笑った。
「だから、つぐみが呼べばいつでもどこにでも行くよ。辛い時、痛い時、怖い時、寂しい時。俺には何も出来ないかもしれないけど、二人でいたなら少しはマシだろ」
なんだ……あたしたち同じ思いだったんだ。
あたしたちは恋愛というものを、まだ知らない。だけど、他のどんな関係よりも純粋に、一番に、互いを思い合える仲なのだ。別にそれでいいじゃないか。人生に、幸せになるための教科書なんて無い。恋愛が必修科目だなんて、誰が決めたのだ。なんだか、色々ふっきれた気分だ。
「ねえ、本当にあたしがあんたと結婚すると思ってる?」
涙を拭きながらあたしは言った。
「え? してくれないの?」
「そうとは言ってない。でも、他の女の子にデートに誘われたらホイホイ付いてっちゃうような男でしょ? 由奈ちゃんとか」
「え? なんで知ってるの?」
「さっき会った」
そっかあ、と奏汰は頭をかく。
「どこからがデートかってのがよくわかってないんだよな、俺。でも、そうだな。気をつける。だとしたら、悪いことしたなぁ。由奈ちゃんにはあとで謝っとくよ」
いいよ、とあたしは首を振った。
「あたしから、ちゃんと謝っておくから」
「なんでつぐみが?」
「悪いのはあたしも同じだから」
そう言いながら立ち上がろうとすると、さっき挫いた足首が痛んで、あたしはグラリとバランスを崩した。
「おい、怪我してるのか?」
あたしの手を取った奏汰が、そのまま膝の裏に手を回し身体を持ち上げる。
「よいしょ」
「ちょっと……」
「重っ」
「ケンカ売ってんのか!」
あたしは奏汰の胸をポカスカと叩く。奏汰が無邪気に「いてて」と笑う。
あたしたちは家路につく。黄昏に染まる河川敷の遊歩道に、重なった影法師が伸びている。子供の頃にもこんなことがあった気がする。怪我をして泣いている奏汰を、あたしがおぶって帰ったっけ。
なんとなく感慨に浸っていると、バックに入れたスマホから通知音がなった。
「あ、ネネちゃんだ」
「ああ、あの漫画家の子か。おまえら仲いいよな」
あたしはメッセージを確認する。
《どうだった?》
それを見て、あたしは自分が今置かれている状況を俯瞰で想像した。
これって……お姫様抱っこ?
あたしは思わず笑う。作戦は何もかも上手く行かなかったけど、最後にこんなシチュエーションになるなんて。
なんだかそわそわする。思えば、成長してからのあたしたちが、こんなにも密着することなんて無かったような。
あたしを抱える奏汰の両腕。その感触に頼りがいがある、男の子の存在を覚える。
上目遣いで奏汰を見ていると、目が合った。すると、奏汰はなぜか恥ずかしそうに視線を逸した。こんなこと初めてだ。
その仕草が妙に愛おしく感じて、なにかが弾けたみたいに胸がきゅっとした。自分の鼓動が頭の中でリフレインする。身体の中に心臓が何個もあるかのようだ。
あたしは思わずゆっくりと息を漏らした。声を出すのが億劫になるほどの息苦しさ。
マジか。こんな単純なことで? これが少女漫画の力? ひょっとしたら、本当に……?
《ヒロイン誕生?》
あたしはそうメッセージを返信して、夕陽と体温で溶けそうな両手を、そっと彼の首元に伸ばしてみた。
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