293人が本棚に入れています
本棚に追加
「うん……何も覚えていないし、どうもロックフォード邸は居づらくて……それよりも田舎でゆっくりしたいと思って」
「――田舎で、ゆっくり……でございますか? あなたが?」
妻が、反芻するように呟く。そのアメジストの瞳には疑いの色が濃い。
「僕は――そういうタイプではなかった?」
「ええ、田舎は退屈で退屈で、虫も多いし嫌でたまらないとおっしゃっていましたが」
「――虫は、苦手かもしれない。でも都会は辛い。知らない人間がいつも会いに来て、僕の憶えていないことばかりしゃべるけれど、自分のこととも思えないし、騙されているのではと疑いだすと――」
妻は自分のカップにも砂糖を入れて混ぜ、優雅に一口飲んでから、カップをソーサーに戻す。
「そうですか。……ここは一応、あなたの家ですから、仕方ありませんわね……」
一応? 仕方ない? いや、ちょっと待てよ。
「……僕は君と結婚していて、君は僕の妻、なんだよね?」
「ええ。……書類上はそうなっておりますわね」
「書類上?」
僕は手にしたカップを慎重にソーサーの上に戻してから、妻に尋ねる。
最初のコメントを投稿しよう!