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無慈悲な風が轟々と砂煙を巻き上げる。
細かい砂の粒が服の間から入り込み、塩の混じった水分と混ざってチクチクと肌を刺す。
(この体にもまだ、出る汗が残っていたのね)
蒼い月明かりが、砂丘の表面を金属のように浮かび上がらせている。
手を触れれば硬く冷たい感触が伝わってきそうなそれが、細かい粒子を巻き起こし、見る見るうちに形を変えていく。
雪。
バグダードで生まれたメルシュオールは未だ見たことはないが、東方のカンという国からやって来た商人の話によれば、勇士が夜空に輝く頃になると、天から綿のように柔らかな白いものが降りてきて、大地を沈黙で包むという。
メルシュオールの目に移るそれは、理性的に考えれば砂でしかないのだが、肌を嬲る風の冷たさと長旅に疲弊した頭は、これが聞きしに及ぶ雪というものなのであろうという錯覚を起こさせていた。
(生きているうちに雪を見ることができたわ)
満足感を覚え、不意に体の力が抜ける。
重力に従えば、どうなるかは分かりきっている。
足首を支点にして、顔から地面に衝突する。
極度の疲労に麻痺しかけているメルシュオールの神経であっても、相応の痛みと冷たさを覚悟した。
雪の感触に全身が包み込まれる。
それは意外に柔らかかった。それどころか暖かくもある。そして柔らかな感触の中にも、力強さを感じた。
(まるで女に抱かれたみたいな。雪というのは、そういうものかしら)
「お姉さま、しっかりなさって」
聞き覚えのある声に、メルシュオールの意識は現実に戻された。
唇の裏側についた砂が、苦く、しょっぱい。これは砂だ。砂漠の、砂だ。
上の妹のパルファザールの細い腕が、体を支えていた。パルファザール。聡明で慈愛に満ちた、上の妹。
「お姉さま、ほら、ご覧になって。赤い星があんなに大きく見えるわ。もうすぐメシア様の居場所に辿り着けるわ」
顔を上げると、末の妹のキャスパールが、姉妹の少し前方で星を見上げていた。
赤い星はメルシュオールが故郷を出発したときと比べて、そう大して大きさを変えていないように見えるが、キャスパールなら、そう言うのだろう。キャスパール。いつも笑顔と希望を忘れない、末の妹。
(あんな恐ろしい目にあった後だというのに)
メルシュオールたち三姉妹がバグダードからベツレヘムに向けて旅立ってから、早一月になる。
バグダード神殿の斎王のお告げによると、西の空に輝く赤い星のたもとに、ユダヤの王が生まれたということだった。
(ああ、斎王さま。私たち三姉妹を幼少の頃より深く愛してくださった、愛しき斎王さま。気高く、誇り高く、穢れを知らぬ神秘の女よ。お別れするのは辛うございました)
メルシュオールはまぶたの裏に斎王の姿を思い描いた。
孤児だった三人を、実の娘のように育ててくれた女の匂いを嗅いで、その寝床に潜り込んだ頃を懐かしんだ。
彼女たちは総勢100人余りのキャラバン隊を組み、赤い星の示す先へと向かった。
旅は順調かと見えた。途中、ヘロデ王の一行に出会うまでは。
(ああ、いまいましい。あの男達め)
斎王から、どれだけ男というものが穢らわしい生き物であるか聞かされていたのだが。
隊の者が、うっかりユダヤの王が生まれたと漏らしてしまわなければ。
自らの王の座を危うんだヘロデ王の軍勢によって、メルシュオールたちの隊は壊滅させられたのであった。
今こうして三姉妹が揃って生きているのは、奇跡といってよかった。
「お姉さま、しっかりなさって。私たちは、いつでも一緒ですわ」
「ありがとう、パルファザール」
パルファザールの頸から、甘い乳香の香りがふんわりと漂ってくる。
(そうだ。この子はいつもこんな香りがしていた。あんなことがあっても、この香りは消えないのね)
「お姉さま!あそこに小屋があるわ!」
キャスパールの弾んだ声が響く。
赤い星の真下、小さな黒い影にしか見えなかったそれが、近づくに連れてだんだん屋根と壁を持つ建物だということがわかってきた。
小屋の側の木には、ラクダも一頭繋がれている。
砂漠一面が月の明かりを反射しているせいで気づかなかったが、一部が水面になっているようだった。
「お姉さま、オアシスだわ」
パルファザールが、姉の手をギュッと握った。極上の絹織物で包んで、キュッと締めたように、柔らかく、強い。女の手だ。
(ああ、あの星の下に、私たちの救世主がいるのね。男を必要とせずに生まれた、神の子。とうとう、メシアさまに出会えるのね)
「バグダード神殿よりの使者のものです。こちらにユダヤの王になられるお方がいらっしゃると存じ奉ります」
三姉妹は、小屋の前で今彼女たちに出来得る限りの身繕いをすると、ためらいがちに小屋の中にいるものを呼んだ。
長旅の疲労は隠せないが、それでも、彼女たちは若く美しい娘たちであった。
着物の乱れを整え、長く豊かな黒髪に手ぐしを通せば、バグダードの三輪のバラと呼ばれた美しい三姉妹が現れた。
彼女たちのまわりの空間だけ華やいだように見えた。
おごそかに小屋の扉が開かれると、中から出てきたのは、凛とした美しい若い娘であった。
(まあ、なんて美しい女なの!)
メルシュオールは女の美しさに目を奪われた。
今まで彼女が知っていた最も美しい女は、バグダード神殿の斎王であったが、目の前の女はそれ以上に美しかった。
やや疲れたような表情を見せてはいたが、その美しさはいささかも損なわれてはいなかった。
化粧や宝石などで飾り立てられる必要のない、生体そのものが持っている、自然の美である。
しかしメルシュオールがその珠のような両の眼を外すことが出来なかったのは、小屋の奥の飼い葉桶の中で無邪気に眠る、一人の乳飲み子であった。
神が化身したとしか思えぬような、美しい女の赤ん坊が、産衣にくるまれてスヤスヤと寝ていた。
(どんなに美しい女に成長するものであっても、生まれてすぐは猿のようではないのか)
メルシュオールは、赤子がこのような美しいものであるということに驚きを禁じ得なかった。
斎王よりも、この赤子の若い母親よりも、生まれたばかりにして、すでに美しかった。
「わ、私たちは、救世主に祝福を与えるために、はるばるバグダードよりやって参りました。どうか斎王さまよりの贈り物をお受け取りください」
そう言いながらも、メルシュオールの唇は震えていた。
妹たちが、斎王より賜った贈り物の箱を取り出す。
ダマスクス1番と呼ばれる金細工職人が刺繍を施した、庶民には手に入らぬ逸品だ。
中には、黄金、乳香、没薬が入っているが、これらも、バグダード神殿の斎王だからこそ手に入れることが出来る最上級の品である。
それなのに、メルシュオールは恥ずかしさで消え入りそうだった。
こんなにも美しい母娘に比べて、汗と砂にまみれた自分たちはなんと醜いことか。
せめてオアシスで水浴みをしてからにすれば良かったと思ったが、たとえクレオパトラが浸かったという牛乳風呂に千回入ったとしても、この母娘の前では年老いたロバのようにみすぼらしく見えたことであろう。
「ああ、なんてお美しい幼子ですこと・・・!」
「本当に光輝くようですわ。まるでこの子のまわりで、天使たちが踊っているようですわ」
パルファザールとキャスパールが、目を輝かせて幼子に寄り添っていた。
その光景を、メルシュオールは現実のものとして見られなくなっていた。
美しき幼子と美しき娘たち。
もし、後世の画家がこの小屋の中で起きている光景を目にしたなら、一枚の荘厳な宗教画に仕立てたであろう。
いや、私は今、絵を見ているのではないだろうか?
「・・・お姉さま。お姉さまったら!」
「もう、お姉さまったら。お疲れなのかしら?」
取り止めのない妄想に浸っていたメルシュオールは、妹たちが自分に話しかけていることに気づかなかった。
「もう、お姉さまったら。ほら、ご覧になって。メシアさまが、目を開けられたわ」
「ああ、なんて愛らしいのかしら!きゃあ、こっちをご覧になられたわよ!ねえ、お姉さま!」
幼子が目を覚ましたようだ。
メルシュオールは、出来ればメシアがずっと眠っていて欲しいとさえ思った。
彼女は恐ろしかったのだ。かくも美しき生き物が、穢れたおのれを見るのを。
しかしメルシュオールは見てしまった。
幸福に満ちたりた微笑みを、幼子が自分にくれたのを。
彼女は思わず目を逸らし、下を向いた。
今、メルシュオールの中を満たしているのは、圧倒的な羞恥と畏怖の感情だった。
決して縮まることのない、自分と美しきものとの間に横たわった深淵だった。
妹たちがどうしてこんなに無邪気にはしゃげるのか不思議だった。
この美しき母娘に比べたら、彼女たちだってロウソクの灯りに群がる蛾に過ぎないではないか。
せめてバグダード神殿を出る前なら、とも思ったが、それが何の慰めにもならないのだということは、長考するまでもなかった。
「お疲れになられたのでしょう。ここは狭いですが、皆さまがお休みになられるぐらいの広さはあります。どうか一晩お過ごし下さいませ」
鈴の鳴るような声で、若い母親が言った。
その声の響きには、善意しか感じられない。メルシュオールは、ますます自分が卑しいものに感じられた。
長旅を経た細い体の、どこにこんな力が残っていたのか。メルシュオールは宵がまだ醒めぬ砂漠を、ラクダを走らせていた。
無論、一人ではない。
彼女の腕には、目にも麗しき幼子が眠っていた。
上の妹パルファザール、下の妹キャスパールは、まだオアシスのほとりにある小屋で眠っているはずだ。
そしてこの子の若い母親も、ひとり子がさらわれたなどとは夢にも思わず、気持ちのいい眠りを楽しんでいるはずだ。
メルシュオールにこのような行動をとらせたのは、いったい何なのか。
それは彼女自身にも分からないが、あの、幼子が彼女に向かって無原罪の微笑みを投げかけた瞬間、メルシュオールの中で何かが変わってしまったのは確かである。
もはや彼女は、妹たちのことも、バグダードの斎王のことも考えられなかった。
無論、若い母親のことも、彼女の頭の片隅にもなかった。
それどころか、あんなに彼女を支配していた、美しき母娘を前にしたときの劣等感すら、広大な砂漠のどこかに置き忘れてしまったようだった。
彼女の中にあるものは、もはやあの瞬間しかなかった。
あの微笑みを受けた瞬間、それが彼女にとっての永遠となってしまったのだった。
メルシュオールはただひたすらにラクダを駆けさせた。
幸いにしてラクダは牝だった。しかも子供を産んだばかりだった。
腹が減ると、ラクダの乳を飲み、幼子にも与えた。
幼子は、不思議と泣き出すということがなかった。小さな手だが、しっかりとした力で、メルシュオールの出ない乳房にしがみついた。
七日七晩駆けたところで、ラクダがつぶれた。
しかしその頃には砂漠を抜けて街へと入っていたので、メルシュオールはそこに住み着くことにした。ナザレという街だった。
メルシュオールを喜ばせたことには、この幼子が彼女のことをマンマと呼んだことであった。幼子は彼女によってウィと名付けられた。
ウィはすくすくと成長していった。
それというのも、ウィに与えるものに困らなかったからだ。
なんと子供のいないメルシュオールの乳房から、乳が出たのである。
最初、彼女はこれを神の奇跡と受け止めたのであるが、そうではなかった。
彼女の喜びは、ある決定的な絶望の出来事によってもたらされたものだったのだ。
やがて彼女の腹は大きくなり、子を産んだ。
女の子だった。
いっそ捨ててしまおうかと思ったが、育てることにした。
メルシュオールによってその子はジュダと名付けられ、ウィの妹として成長していった。
ウィとジュダは、ナザレの街の人たちから美しき姉妹だと思われていた。
実際、生まれたのが数ヶ月しか違わないため、双子の姉妹だと思われたのだ。
ウィはますます愛くるしく、どこに行っても人に可愛がられた。
メルシュオールの血を引くジュダも、美しい少女に成長していった。
美しき母親と美しき双子の姉妹。事情を知らぬナザレの人には、そうとしか思われなかった。
だが、メルシュオールだけは知っていた。
ジュダは到底ウィの美しさに及ぶべくもないと。
あの子は自分の血を引いている。その事実を思い出すたびに、ウィの本当の母親の美しい姿が脳裏に浮かんだ。
メルシュオールは二人を対等に育てようとしたが、彼女の愛情は、どうしてもウィの方に傾きがちであった。
ウィは聡明で、幼くして大人の教師が教えることなどなくなってしまった。
ジュダも非凡なものを見せたが、あくまで子供として優れているというだけで、きらめくような才気は感じられなかった。
ウィの場合は、生まれながらにして天からあらゆる知識が授けられているかのようだった。
やがてウィは街の神殿に入り浸り、学者達と議論を交わすようになっていた。
「ウィ。またここにいたのね。どうしてそう神殿にばかりいるのかしら。ここは子供が来るところではありませんよ」
その日も、飯時になっても帰らぬ姉妹を探して、メルシュオールは街に出た。
案の定、ウィは神殿にいた。
メルシュオールにとっては、ウィが神殿にいる理由など確認するまでもなかった。
この子は救世主なのだ。男によらず、女だけで生まれた神の子なのだ。ウィが神殿を好むのは当然だった。
だが、彼女の胸には、わけもなく立つさざなみがあった。
彼女は無意識にウィを神殿から引き離そうとしていた。
ナザレの神殿は、バグダードの斎王が支配する聖地のように女にとっての楽園ではなく、男の神官が支配する空間だったのだ。
メルシュオールは今までがそうだったように、ここナザレでも、男を嫌悪し、女を愛した。
「マンマ。ここは神の住む家ではありませんか。それならば、私の母上はここに住んでいるのです」
ウィは真っ直ぐな目でメルシュオールを見つめた。
この目で見つめられると、メルシュオールはいつも過去に犯した過ちを見透かされているような気持ちになってしまう。
事実、どうなのだろう?ウィはメルシュオールが本当の母親でないことを知っているのだろうか。
そのとき、柱の影からウィによく似た背格好の、美しい少女が現れた。
まだバランスの取れぬ華奢な足取りで、姉の元へと駆け寄ってくる。
「ジュダ。あなたまで、こんなところに」
メルシュオールにとっては意外であった。
てっきり、ジュダは近所の子供たちと連れ合って遊び歩いていると思っていたからだ。
「だって、ウィがいるんですもの。マンマ、私たち、いつも神殿で遊んでいるのよ」
ジュダはあどけない微笑みを母に投げかけると、ウィの首に両手をかけて抱きついた。
姉は決して大人たちに見せることのない、理性以前の混沌とした愛情のこもった視線を、妹に投げかけた。
メルシュオールの機嫌は急に悪くなった。
有無を言わせぬ態度で姉妹を引っ張っていくと、家に着くまで一言も言葉を発しなかった。
今や彼女は知ってしまった。子供たちの間には、決して大人が入っていけない空間が出来上がっているのだと。
それから数年が経った。ウィはますます美しい少女へと成長した。
ナザレの同世代の少女たちは、こぞってウィの崇拝者となった。
ウィはいつも若い少女たちの中心にいた。彼女らは、いつも13人のグループで行動していた。すなわち、ウィの他に、ぺテラ、ヨハナ、アンデラ、ヤコバ、ピリパ、バルトロメラ、マタラ、トマサ、アルパ、タダラ、シモーネ、そしてメルシュオールの子、ジュダの12人である。
ジュダは、ウィがどこに行くにも側を離れなかった。
この12人は、いつもそうであったのだが、とりわけ、どこに行くにも、何をするにも、ジュダはいつもウィの近くを独占していた。
この頃になると、ウィは奇跡を起こすようになった。
あるときには、ウィが足萎えの女の悪い方の足を、その雪のように白い手でさすってやると、女は普通に歩けるようになった。
またあるときには、生まれつき目の見えぬ女の両の瞼に、そのバラのように赤い唇でそっと口づけをすると、女は目が見えるようになった。
またあるときには、死人の女の胸に、その柔らかな餅のような頰を当て、何事か訳の分からぬ言葉を呟いたかと思うと、死人の女が蘇った。
ナザレの女たちは、ウィを神の使いと見なすようになった。
そんなウィを、メルシュオールはいつも物陰から見守るしかなかった。
ウィはいつも女たちに囲まれていた。時には大勢で出かけ、幾日も家に帰って来ぬときもあった。
どこに行っていたのかとメルシュオールが問うても、ウィは、神の御心が現されるところへ、としか言わなかった。
ジュダに聞いても無駄だった。姉妹には姉妹だけの世界があった。
そんなときメルシュオールはいつも気をもまされた。
私は母親なのだから、ウィがどこで何をしているのかを知る権利があるのだと主張したかった。
しかし、それが宙に浮いた権利だということは、自分が一番良く分かっていた。
そしてそのことはおそらくウィならば知っていることなのだろう。
メルシュオールは身が焦がれるような苦しみを感じた。
最初、それはウィに対して秘密を抱えていることに対する後ろめたさなのだと思い込もうとした。
だが、それが本心ではないことは火を見るより明らかだった。
メルシュオールは自分の心の中を見つめるのが怖かった。
一旦そうしてしまえば、衝動的にウィを攫って以来、心の奥深くに隠して来た無明が堰を切って溢れ出してしまいそうだった。
それは母性愛だと思っていた。そう思い込もうとしていた。
しかし、溢れるようなウィへの思慕に対して、父親はどうあれ、本来自分の腹を痛めて産んだはずのジュダには、なんの愛情も湧いて来なかった。
それどころか、ジュダがウィと一緒にいるのを見るだけで、メルシュオールの心は大いに思い乱れた。
メルシュオールは、ジュダなどいなければいいのに、と思う自分に気付いた。
いや、そんなことは当の昔に気付いていた。
メルシュオールが欲しがったものは、あの、粗末な小屋の中で、光輝く幼子から受け取ったものに過ぎなかったのだ。それはどんなに時が経とうと同じであった。
しかし自分がそれを受け取る資格がないことは重々承知していた。
いったい、何を今更、言っているのか。
自分はパルファザールとキャスパールの二人の妹にも、愛したバグダードの斎王にも、そしてウィの本当の母親にも、合わせる顔などないではないか。
あの天使の微笑みに貫かれた瞬間、彼女は悪魔に魅せられていたのだ。
メルシュオールははっきりとジュダのことを憎んだ。それは憎しみだった。
どうしてあの子はウィの側にいるのか。どうしてメルシュオールが知らないウィを知っているのか。
どうしてあの忌々しい子がいるばかりに、自分は苦しまねばならないのか。
どうしたらこの苦しみから逃れられるのか。
人間である以上は、仕方のないことではないのか。たとえそれが特殊と呼ばれようとも。
メルシュオールの苦しみは地獄の業火となり、その身を焼いた。焼いて焼いて焼き尽くしたあと、彼女にはある考えが浮かんでいた。
その日、12人の女たちが、そろってウィと食事をしていると、出し抜けにウィが言った。
「私があなたたちと一緒に食事をするのは、これが最後になるでしょう」
「お姉さま、それはどういう意味ですか」と、ウィの隣にいたジュダが聞いた。
「私はある人から裏切りにあい、十字架に処せられます。あなたたちも良く知っている女が、わたしを裏切るのです」
女たちはどよめいた。
「それは、誰ですか!?」と、ジュダが狼狽して尋ねた。
ウィは妹を抱きしめた。そして席を立ち上がると、言った。
「妹よ。その人を憎んではいけません。あなたにとっては、母のような人なのですから。その人は、私がこれから口づけをする人です。それが、愛する人への接し方なのですから」
そうして、メシアは静かにその場を後にし、家路についた。
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