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その頃の僕は大学を休学して、とある喫茶店でアルバイトをしていた。
休学した理由は特別なものがあるわけではなかった。
ただ、なんとなく、大学というものに対して興味がなくなっていただけだった。
とはいっても、まだ社会に出る気にもなれず、やりたいこともないから暇な時間でも潰そうと思ってアルバイトをしていた。
バイト先にそこの店を選んだのは、ひどく暇そうで、仕事が楽そうだったからだった。
実際、時給は安かったが、ほとんど客が来ることはなかった。
僕の他にはマスターがいるだけで、一日中、僕は見るともなしに店のテレビを見たり、読むともなしに店に置いてある女性週刊誌を読んだりしていた。
そこの店に、いつもやって来る客がいた。その人はおそらく、本田さんといった。
本田さんに対する記憶は、いつも本田さんが本を持ち歩いていたということだった。
本田さんは小さな丸いレンズの眼鏡をかけていて、いささか太り過ぎな感のある、中年の男性だった。
本田さんはいつも濃い緑色のズボンを履いていて、それをサスペンダーで吊るしていた。
上に着ているものはストライプの入ったおそらく白い開襟シャツだった。
おそらくというのは、それが微妙な色合いに茶色がかっていたからだ。
元々、そういう色合いで作られているシャツなのかもしれないが、白いシャツが長年の経年経過により黄ばみ、赤ばみ、そして今現在は茶ばんでいると考えたほうがしっくりくる色合いだった。
いつも同じシャツを着ているようにも見えたし、何枚も同じタイプのシャツをまとめ買いして持っているのかもしれなかった。
少し寒くなると濃い茶色のカーディガンを羽織った。
そして本格的に寒くなると、艶を消した紺色のダウンジャケットを着た。
靴は雨の日も風の日も、いつもブカブカに膨れ上がった黒い皮のローファーを履いていた。
本田さんの髪の毛は大方の場合、短くカットされていたが、上の方はいつも寝癖が一つ二つ跳ねていた。
そのテカり具合からして、本田さんが毎日髪の毛にシャンプーをするタイプではないことは明らかであった。
本田さんが結婚しているのかどうかは分からない。
彼に家族がいるのかとか、どんな職業に就いているかだとか、どこに住んでいるのかとか、どこの出身なのかだとか、彼に対する情報のほとんどはよく分からなかった。
彼はほぼ毎日、というのは定休日の水曜日を除いて、僕がアルバイトをしていた喫茶店にやってきていた。
その点からいけば、間違いなく彼は店の常連客ということになるのだが、彼は相手が僕であれ、店主のマスターであれ、店の誰とも会話をすることはなかった。
彼はいつも一人で店にやってきて、コーヒーを注文する。
そして三十分ばかしかけて飲み終わると、会計を済ませて出て行く。
従って、本田さんが店の中で発する言葉というと、一年の大半を通じて「ホット」だけであり、それが夏場は「アイス」になるだけであった。
店はあまりに暇であったため、彼がレジに向かったことに僕が気付かないことはなかった。
そのため、本田さんが「すみません」と声を発して僕を呼ぶ機会も一度もなかった。
本田さんは店にやって来ると、いつも入り口近くの二人用のテーブル席に、一人で座った。
いつも同じ席を選んで座っていたし、元々、繁盛のカケラもしていない店だったから席はほとんど空いていたし、彼が来たときにいつも座る席が空いていなかったことはなかったのだが、彼は入って来ると必ず、一通り店の中を見渡してから、今、空いている席の中から選ぶのであれば、この席にしようかな、という感じで席に着いた。
実際、そこの席に座る人は本田さんを除けば滅多にいなかったし、本田さん専用席といっても良かったのだが、本田さんはいつも初めてそこを見つけたような雰囲気で席に着いていた。
定休日を除いて毎日来ているのに、慣れた素ぶりというものを一切見せない人だった。
どうして僕が彼が本田さんという名前であるかを知っているかというと、彼は傘に名前を書いていたからだった。
彼は雨が降るとコンビニで五百円で売っているような透明のビニール傘を差してきたのだが、持ち手のところに名札を付けて、そこに黒いマジックで書いた字で本田と書かれてあった。
彼はある雨の日に傘を差してやって来て、店の前の傘立てに傘を入れておいたのだが、彼が店で過ごす三十分ばかりの間にすっかり雨が上がってしまい、案の定、傘を忘れて帰ったのであった。
僕は店のシャッターを閉めようと表に出たときに本田という名札の付いた傘の忘れ物に気付いた。
透明のビニール傘に名札を付けているなんてと面食らったが、なるほど、これなら盗まれることはないだろう。
この国では財布はなかなか盗まれないが、透明のビニール傘はいとも簡単に盗まれるのだ。実に物騒な国である。
本田さんは次の日、いつものようにやって来て、帰るときに今度は忘れずに持ち帰っていった。
というわけで、僕はこの常連客のことを本田さんと呼んでいたのである。
もちろん、直接呼び掛けたことはない。
もしかして、彼が本田さんという人の傘を盗んで持っていただけかもしれないからだ。
彼は到底、盗みを働くようなタイプには見えなかったが、いかんせん、この国の住人である。
他人の財布を盗もうなどとは考えもつかないような人が、透明のビニール傘だけは勝手に持っていくような国なのだから。
そして本田さんには、ある印象深いことがあった。
それは、彼がいつも一冊の本を持ってきていたことであった。
喫茶店に本を持ってきて、コーヒーを飲みながら読むことについては、特に記すべきことでもない一般的にありふれたことではあるのだが、彼の場合はいささか事情が異なっていた。
彼はカバンを持ってこない。本は裸で持ってこられるのである。
ハードカバーのくすんだ緑色の本で、元々ついていたカバーは外してしまったみたいで、タイトルはわからない。
五センチほどの厚みがあり、結構、がっしりとした本だ。
それは僕に、実家の扉の付いた大きな本棚の中に眠っていた、世界文学全集を思い出させた。
それを本田さんは、いつもテーブルの右側に置き、左側にはコーヒーのカップを置いた。
しかし、本田さんがその本を読むことはなかった。
本を持ってきているのに、彼は店の中にいる間中、その本を一切読まなかった。
本は読まれずに、いつも決まってテーブルの右側に置かれた。
僕は不思議に思っていた。
もしかしたら、テーブルのバランスに欠陥があって、左側にコーヒーを置くとテーブルが傾くからバランスをとるために本を置いているのかなと思い、テーブルのバランスを確かめたことがあったが、テーブルには何の問題もなかった。
その本は、いつも本田さんとともにやってきて、決して開かれることなく、本田さんが帰るとともに帰っていった。
事件は前触れもなく、唐突に起こった。
その日、本田さんはいつもと同じようにやって来て、いつもと同じ席に座り、いつもと同じようにコーヒーを注文した。
そしていつもと同じように三十分ばかりして帰っていったのだが、そこで僕は異変に気付いた。
本田さんが本を置きっ放しにしていったのだ。
やれやれ、と思ったが、僕はその本をそのままにしておくことにした。
次の日は水曜日ではなかったし、どうせまた本田さんはやってくるのだ。
テーブルを拭くのに邪魔にはなるが、本田さん以外の客が座ることもない。
明日まで置いておけばいいだろう、と、さして気にもしないことにした。
だが、次の日、本田さんはやってこなかった。
僕がバイトを始めたときには彼はもうこの店の常連客になっていたから、僕にとって本田さんが店に来ないことは初めての経験だった。
その次の日も本田さんは来なかった。
そして、その次の日も本田さんはやって来なかった。
一冊の本を残して、それ以来、本田さんは店に来なくなってしまった。
困ったのは、その本をどうするかだった。
僕はしばらくはその本をそのままにして、綺麗に本の周りだけテーブルを拭いていたが、流石にずっとそのままにしておくわけにもいかないだろう。
本田さんが店に来ないなら来ないでいいのだが、他人のものをずっとこのままにしておくのもどうかと思われた。
法律上は遺失物に当たるので、やがては落し物として警察に届けなくてはいけないのだろうが、そうするのも面倒臭かった。
僕は思い切って中を見てしまおうかと思った。
緑色の分厚い本には、見る限りタイトルがどこにも書いていない。
何の本なんだろうと想像してみた。
もしかしたら本田さんの日記なのかもしれない。
だから人に見られたくなくて中を開かなかったのだろうか。
あるいは、聖書のように、宗教的な意味のある本なのかもしれない。
おそらく本田さんは何かの新興宗教に入っていて、そこの教義ではいつも本を持ち歩かなくてはいけないのだ。
しかし、だとすると、本田さんは信仰を捨てたことになる。
あるいは、本の形をした財布だろうか。
本田さんはいつもコーヒー代を払うときにはズボンのポケットから小銭入れを出して払っていたから、彼がどんな財布を持っているかは見たことがない。
この本の形をしたものが札入れなのかもしれない。
あるいは、これは単なる世界文学全集なのかもしれない。
ただ、それだと本田さんがいつもこの本を持ち歩いていたことの理由がよく分からない。
いったいぜんたい、どうして人は世界文学全集を持ち歩かなくてはいけないのだろうか?
好奇心に耐えかねて、僕は本を手に取り、その最初のページを開こうとした。
そのとき、店の扉が開いて、 二、三人客が入ってきた。
「あ、いらっしゃいませ」僕は本をそのままにして、奥の広いテーブルに案内した。
その日は忙しかった。
僕がここでバイトをし始めてから、忙しい日なんて全くなかったのだが、その日は、それからひっきりなしに客がやって来た。
僕はすっかりくたびれてしまって、本のことなど忘れてしまった。
その日以来、店は大いに繁盛した。
朝から閉店まで、客足が途絶えないようになり、いつも店の中は客でいっぱいだった。
ただ、それでも本当に満席になることはなく、店の入り口で空席を待つ人が現われることはなかった。
どんなに客が多くなっても、テーブルは一つ空いていた。
本田さんの本が置いてあるテーブルだった。
客は一組の客が出て行くと、入れ替わりで新しい客が入ってきたが、決して同時に何組も入ってきて、客を捌くのにてんてこ舞いになるということはなかった。
店は随分と潤い、僕の時給もアップした。それまでは僕とマスターの二人で店を回していたが、新しい女の子を雇うことになった。
本は相変わらずテーブルの上にあった。
そんな状況が数ヶ月ほど続いたあと、急に暇な日がきた。
その日は朝からほとんど客が来なかった。
僕はほっとして、これで一息つけるなと思った。昔に戻ったようだった。
夕暮れ時に、突然本田さんがやって来た。
僕とマスターは、あっという表情をしたが、新しい女の子が「いらっしゃいませ」と挨拶をした。
本田さんは以前と同じように、店の中を見渡し、入り口近くの席に、つまり本田さんが置いていった本がテーブルに載っている席に、いつもの本田さんの指定席に、どんなに店が繁盛しても他の誰も座ることのなかった席に座った。
新しい女の子が「あっ」と言いかけたが、僕は彼女を制して注文を取りにいった。
本田さんはいつものように「ホット」と言い、僕は電表にHの文字を大きく書いてマスターに目で合図を送った。
マスターはいつものようにコーヒーを淹れ、僕がテーブルまで運び、本とは対照の位置に「ごゆっくり」と言ってカップを置いた。
本田さんはいつものように三十分ばかりでコーヒーを飲み終わり、レジに向かった。今度はちゃんと本を持って。
ズボンのポケットから小銭入れを取り出し、丁度で払った。
「ありがとうございました」
と形ばかりの挨拶をして、僕は本田さんを見送った。
その日以来、店はまた元のように閑古鳥が鳴くようになった。
本田さんは毎日やってきて、毎日コーヒーを飲んだ。
僕は新しい女の子に本田さんのことを説明して、本田さんへの接客を任せるようになった。
本田さんはいつも本を持ってきていたが、もう置き忘れることはなかった。
そして僕はアルバイトを辞めて大学に戻ることにした。
いつまでもここでこんなことをしているわけにはいかないと思った。
それにしても、あの本はいったいなんだったのだろう?
どうしてあの本がある間だけ店が繁盛したのだろう?
招き猫というのは聞いたことはあるが、招き本というのもあるのかもしれない。
本田さんは、ちっともお金を持っているようには見えないのだが。
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