平社員の田中さん

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平社員の田中さん

「お前じゃ話にならんっ……! 上司を呼べ!」  とある会社に勤めている平社員の田中には、たった今、耳をつん裂くような怒号が浴びせられた。それは仕事の打ち合わせに訪れた、取引先でのこと。その場に居るのは田中以外にはもう一人、取引先の課長のみだった。  田中は現在、広い会議室の椅子に座る課長の前に立たされ、2人はまるで職員室に呼び出されて怒られる生徒と教師のような構図だった。契約交渉に訪れた田中は初め手厚くもてなされたのだが、先方が田中のはっきりとしない振る舞いにとうとう痺れを切らしてしまったのだ。率直に言って、田中は仕事ができない。だからこうなってしまったのもそれはそれで仕方ないと言えた。  それでも、バンッ! と机を強く叩く音、次いで浴びせられた怒声にも、平社員の田中にはまるで怯えた様子もあたふたした様子も見られなかった。ぬぼーっとした面立ちは、事の重大性をまるで認識できていないようですらあった。 「呼ぶのは、直属の上司でもよろしいですか?」 「じゃなきゃ誰を呼ぶってんだ⁉︎ ……お前の母ちゃんか?︎ ああ⁉︎」  ボケと同時にもう一度怒鳴られる田中。けれどその直後に会議室の扉が優しくノックされて、一人の女性が現れた。 「すみません、課長。こちらの会議室の使用時間がもうすぐ……」 「うるさいっ! それならこの馬鹿に言え! それになんだ、お前は⁉︎ こっちに来たのならお茶の一つでも運んで来たらどうなんだ⁉︎」 「し、失礼しました! すぐにお持ちします……っ!」と言って、女性は慌ただしく下がっていく。 「……ったく女のくそして、そんな気遣いすら出来んとは」  扉が閉まった後、課長は頬杖を付いて呆れた様子だった。 「あのぅ……」 「ん?」 「母ちゃんは居ないのでその代わりに……父に、電話を掛けてもいいでしょうか?」 「……は?」  課長が呆気に取られている間にも、田中はスマホを取り出し、電話をかけ始めた。 「いや……お前、ちょっ……⁉︎」  一体何を言ってるんだ、こいつは……。人の言ったことをそのまま鵜呑みにしやがって。若者なりの反抗心ってやつなのか? それにしては親を頼るなんて……情けない。それともやはり、ただのバカなのか? と。そんな風に課長が呆気に取られている間にも、田中は電話で、しかも口調は敬語で何やら話していた。  それから間もなくして課長のほうを見ると、電話口に出るよう課長へと耳に当てていたスマホを差し出した。 「あの……父が、代わってほしいと」  これは……ウチの子を怒るな! とでも、説教されるのだろうか? もしそうなったときは良識のある一人の大人として、親にもひと言申さなければなるまい。課長はひったくるようにスマホを取ると、電話に出た。 「……はい。お電話代わりました。AZ社の鏑木と申しますが」 『ああ、これはどうも鏑木さん……本日は息子がそちらに失礼しているみたいで』 「ええ、まあ……ところでお宅は、日頃から困った時に親を頼れば何でも解決してくれる、なんて教育をされているのでしょうか? そんなことでは、息子さんはいつまで経っても半人前のまま独り立ちなんて出来ないのではないでしょうか?」 『半人前……まあ確かに、その通りですね』  ……おや? これは案外、話の通じる相手なのでは? ニヤリとほくそ笑んだ鏑木は、 「私が考えるに、その責任の所在は――」 『いやはや女を見る目はこれっぽっちで……まったくもって、困りものですわ。あっはっはっは――‼︎』 「……は?」  しかし、またしても呆気に取られてしまった。……何を言ってるんだ、この親は。そして何故そんなに大爆笑している。全くもって理解不能だった。 「あの、いいですか? あなたの息子さんはですね、率直に言って、仕事ができないと言っているんです。しかしそれは元を辿れば、あなたの教育の所為なのでは……?」 『親の背中を見て子が育つ……いやあ〜間違いありません。誠にその通りで、耳が痛いっ……! あっはっはっは――‼︎』 「…………」  話はどうやら通じる……しかしそれは上手い具合に、噛み合っていなかった。  電話口の父の笑い声が聞こえたのか、平社員の田中も声を漏らさずに無音で笑っていた。……なんなんだこの親子は。気味が悪い。  鏑木がそう思ったのも束の間、スッと笑いが止んだ。 『でもね、鏑木さん。確かに息子は仕事はてんで駄目だが……良いところもあるんですよ』  そう言う田中父に鏑木は一種の侮蔑を抱く。息子は優しい性格の持ち主なんです、とでも言うつもりだろうか? そんなこと……誰にでも言うことができる。  しかしその予想は外れていた。 『息子には人を見る目がある。そして、そんな息子が父である私を頼ってきた時、それは我が社におけるひとつの答えを表してもいるんですよ』 「……それは?」  電話の向こうで、ニヤリと笑う雰囲気があった。そして言葉が紡がれた。 『我が社TホールディングスとアンタんとこのAZ社の取引は……今日限りで白紙に戻す。そして今後一切の取引も無しだ』 「なっ……正気か⁉︎ ……いや、ですか⁉︎」  そもそもこんな出来損ないの塊のような奴の父親が、社長であることにも度肝を抜かれていた。 『無論。私は一度口にしたことは取り消さない性分でね』 「そ、そんなっ……愚息の電話ひとつで⁉︎ それに……それは、アンタんところも不利益を被るはずだ‼︎」  立ち上がった鏑木は声を荒げた。しかしそれでも平社員田中の父であり、Tホールディングス社長の意見は揺るがなかった。 『いいや、その心配はしていない。近年ウチは、息子の眼力が我が社の成長率における一端を担っているというのも事実。少なくともこの判断が、不利益になるようなことは……無い!』 「そ、そんな……」  強く断言されてしまった鏑木は、しなしなと床にへたり込んでしまった。鏑木にとって、今回の企画は昇進がかかった重要な取引だったのである。それがどんな事情であれ、白紙になってしまったとあっては昇進はまず無い。仕事ができず、訳もわからない愚息と親バカ社長の所為で自分の未来はたった今ふいになってしまったのだ。……そんなおかしな話があるだろうか? 現実を受け止められないまま、けれど鏑木は何とか声を絞り出した。 「最後にひとつ、聞かせてほしい……」 『せっかくなので聞かせてもらいましょうか』 「息子に……人を見る目があると判断しているなら、どうして人事部に置かない? 優秀な人材を確保すれば、それだけ……」  むしろ人事部に居てこそ、最大限に持ち味を発揮できる。それは鏑木でなくとも思うこと。  その疑問に、Tホールディングス社長はこう答えた。 『ああそれは……最初に言ったでしょ?』 「……え?」 『親の背中を見て育った所為か、息子は極端なまでに……女を見る目がない。だから人事部に置いた暁には、顔だけ良い女を採用してすぐに会社を潰す』  そんな地雷を、人事部に置けるとでも……? と。  それが仕事も出来ない一方で人を見る目のある平社員の田中を、人事部に置かない一番の理由であるらしかった。 「は……はは、はっ……」  鏑木は渇いた笑いを漏らして納得した。確かにそれだったら、他社との取引に遣わせた方がいいかもしれないと、そう……。
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