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「そろそろ潮時だな。大事な武器が一つ減るのは惜しいけどね」
ナキシムはグラスを置いた。瞬時に張り詰めた空気のなか、ジゼルがナイフを頭上に掲げる。テーブルに置かれたナキシムの指がかすかに動いた次の瞬間、ジゼルは目にもとまらぬ速さで髪の結い目を断ち切り、ニコッと笑った。黒いヴェルヴェットのリボンがはらりと床に落ちる。
「びっくりした?」
「それはもう」
「怖かった?」
「ええ、心底。……いっそ役者に転身されてはいかがです?」
「ははっ、悪くない」
肩に落ちたブロンドの巻き毛を指に絡めながら、ジゼルは無邪気な笑みを浮かべた。ついさっきまでの刺すような冷たさからは想像もつかないその表情に、ナキシムは己の提案に改めて納得するように深く頷いた。
「僕が大人になったら、マスターよりも色男になると思わない?」
「それはどうでしょうな」
「……はぁ。ナキシムは本当にマスター命だな」
「ええ、もちろんです」
「だったら僕に手を貸せ。僕がシャーロット様をものにすれば、マスターは誰のものにもならない」
「いいえ。私のマスターへの想いは、とうの昔に完結していますから」
ゆるやかに弧を描いた口元を見つめながら、ジゼルは「どういう意味?」と首を傾げた。
「私の理想のマスターは、すでに私の中で永遠なのです」
「……余計に意味がわからない」
「ええ。理解できる人は少ないでしょうな。何しろ私が人を愛せる時間は短い」
ちびちびと酒を飲みながら、ナキシムは遠い昔を思い浮かべるようにじっと目蓋を閉じた。
「なるほど、そういうことか。……難儀だな」
「さすがはジゼル殿。お若いのに博識ですな」
「酒場には色んな人が来るからね。……まぁそういうことなら、僕は自由にやるだけだ」
「ええ。私の立場上、後押しはできませんが……見届けさせていただきましょう」
「人聞きが悪いな。僕がマスターを裏切るとでも思ってるの?」
「フフ、これは失礼」
「でも選ぶのはシャーロット様……そしてそのとき傷ついたマスターを癒すのはあなたの役目だ。昔のようにね」
「残念ながら私の癒しが必要な場面はありませんでしたが、あの頃のマスターは永遠に私の天使です」
「……はぁ? あれが天使だって? ナキシムの頭の中はお花畑だな」
無造作に髪をかき上げ、ジゼルは呆れたように笑う。ナキシムにウインクを飛ばされ、エメラルドグリーンの瞳はあさっての方に向けられた。
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