第一話 それからの日々①

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第一話 それからの日々①

 「本当に、ごめん……」 ジルベルトは本当に申し訳ないと感じていた。『優柔不断で煮え切らないクズ男』なのではないかと自覚している。 「未だ心労が残っているのよ。無理もないわ、気にしないで」 腕の中の愛しい女(ファティマ・アンジェライン)が気遣わし気にジルベルトを見上げた。潤んで艶のある大きな翠の瞳は、最高級品質のエメラルドを思わせ、口の中に入れたら甘く蕩けそうだ。桜色のマシュマロみたいな頬も、蜂蜜みたいなブロンドの髪も、少しだけ鼻にかかった甘い声も、どこもかしこも一流シェフが腕を振るって作ったスーツのように甘くて美味しそうで。愛しく可愛くて食べてしまいそうな程愛して……いた、いや、筈だ。  それなのに……男としての機能が、全く反応しないのだ。  あの後、ジルベルトは皇帝の跡を継いだ。帝国を立て直しつつ、アンジェラインと正式に婚約しその半年後に結婚した。国を挙げて盛大に祝われた。何せ、《諸悪の根源》を絶ち帝国を救った英雄と聖女の挙式なのだ。シュペール帝国の妖精たちも大勢集まり、祝福を授けてくれた。誰も彼もが至福の時を過ごした。最高に幸せだった。生きて行く上で多少なりと波風が立つ事はあれど、愛する人と子宝にも恵まれ末永く幸せに暮らして行ける筈だった。  初夜、混乱し切った帝国が落ち着きを見せるまでは、と純潔を保っていた愛しい人と漸く身も心も一つに結ばれる! 感慨もひとしおだった。華奢な体を抱きしめ、しっとりとした肌の感触を堪能する。互いに求め合い、愛しい()と一つになる……つもりだったし、心から望んでいた事だったのだ。  だが……  (キアラ……) あの悪女(ディスティ二―・キアラ)が暴動を起こした民衆の波に呑み込まれてからと言うもの、最後に見据えられた瞳が頭を離れなかった。ふとした拍子に、脳裏を過るアメトリンの瞳。責めるような、それでいてどこか寂しそうで物悲しいような眼差しが胸に迫るのだ。  ……よく覚えておきなさい。国を統治するには、愛だ恋だと浮かれ、正義の光だけでやっていけるほど甘くはないの。そんなのは虚構の世界だけに登場するお伽話よ。そこで見ていなさい、証明して差し上げるわ。ここまで統治者に対して膨れ上がった不満と憎悪、怨嗟を完全に滅するには、よ。これで、あなた方は『全ての元凶であった悪』を滅ぼしたヒーローとヒロインとして歴史にその名を馳せ、語り継がれて行く事でしょうね……  さらに夢の中に響き渡る悪女の声が、追い打ちをかけるようにメンタルを蝕んでいく。 「あ、アンジェ……」 目の下にそっと触れる、細くい指。桜色の花びらのような爪先を目にして我に返る。 「目の下の隈、ずっと消えないわね。日増しに濃くなっている。ずっと、じっくり休む時間が無かったのですもの。少し休息は必要かもしれないわ」 僅かに寂しさを滲ませつつ気遣ってくれる愛しい彼女に、どことなく後ろめたい気持ちが降り積もる。 「……そうだな、有難う。すまない」 「謝らないで。あなたのせいではないし、何よりもジルベルト、私はあなたの体の方が心配よ」  彼女は甘えるようにジルベルトの胸に頬をすり寄せた。ジルベルトは抱き締める両腕に力を込めながら、ハニーブロンドに口づけをする。鼻をくすぐる、甘く蕩けそうな香りは身も心も癒される。彼女が愛用しているトリートメントのそれだろう。バニラと青林檎が混じり合ったような香だ。心癒させる筈なのに、何故か『薔薇の香り』が懐かしく感じらてしまう。  『薔薇』は、悪女(キアラ)が好んで愛用していた香りだった。手づから薔薇摘み、それを使用して石鹸やシャンプーや香水などを作っていた。貴族向けと一般向けに別に改良し、商品化もしており庶民にも人気だった。あの一件以来、暴動を起こした民衆により商品は全て回収され、工場と共に全て破壊し尽くされた。今ではその商品の名前を出すのも帝国民全ての「暗黙の禁忌(タブー)」とされている。  (どうして今更、それを懐かしく思うのか。しかも、あのようなを……)  不安そうに己を見上げる、エメラルドの双眸に気付く。 (……俺は一体何をしているんだ。このままではダメだ。アンジェにも帝国にも悪影響しか及ぼさない) ジルベルトは気分を一新しようと、やんわりアンジェラインへの抱擁を解いた。 「少し、夜風に当たって思考を整理してくる。お前は気にせず、ゆっくり寝ていてくれ」 出来るだけ優しい声で、ネオンブルーの瞳に愛情を込めて彼女を見つめゆっくりとベッドを抜け出した。ソファに脱ぎ捨ててあったシャツとパンツを手早く身に着けていく。  ベッドの中で、アンジェラインは寂し気に彼の背中を見つめる。精巧な彫刻のように完璧な唇、鍛え上げられた鋼の体、滑らかな肌、若草のような清々し体臭……どれも深く知っているのに、最後の最後で未だ一つに溶け合え無い。 (……どうして? 以来、ジルベルトの心がどんどん離れて行っている気がする。むしろ、に……)  愛しい人の背中を見つめながら、アンジェラインは慌てて不穏な事を感じてしまった自分を打ち消した。 (ううん、まさかね。ジルベルトは、あれからずっと満足に休息が取れていないもの。だからきっと疲れ過ぎているだけよ。少し一人にして、十分に休ませてあげましょう)  そう思い直し、寝室から出て行く夫に「風邪引かないようにね」と明るく声をかけた。ジルベルトは軽く右手を挙げてそれに応じる。 (そうよ、何も心配する事無いわ。だって私たちは《正しい事をした》だけ。それによって《悪》が滅んだ、至極当然で正当な事をしただけだもの)  彼女はそう自分に言い聞かせる事で気持ちを落ち着かせた。そうする事で、ずっと心のどこかにあった一抹の疑問と罪悪感に蓋をした。   「陛下、どうなさいました?」 寝室を出ると、ドアの左右に分かれ二人の護衛騎士が敬礼をして出迎える。一人は、紺色の短髪に金色の瞳を持つ美丈夫、ラウル・ヘイワード。もう一人は、小豆色の長い髪をポニーテールにまとめ上げ、快活そうな明るい茶色の瞳を持つアリシア・ベリーズ、女性騎士だ。この他に三名ほど、計五名が皇帝と皇后の専属護衛騎士で、ローテーションで任務に当たっている。  「ラウル、ついて来てくれ。アリシアはアンジェを頼む」 「「御意」」  命じられ、アリシアはそのままドア付近に待機、ラウルはジルベルトの後に続く。黙々と廊下を歩きながら、ジルベルトの足は自然にへと向かっていた。歩きながら、幼い頃から叩き込まれて来た地球の歴史を振り返る。そうすると、気持ちが落ちついて思考の整理が楽になるのだ。  ジルベルトは教科書を開いて朗読するかのように、地球がこれまで歩んで来た歴史に思いを向ける。
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