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第一王子②
『《当たり前》の事なんて何一つないんだから。本来なら明日が普通に来る事なんて奇跡だと思うし。野生の勘って大事よね。理屈ではなく、本能で感じる違和感とか。シックスセンスとも言うかしら? そういう予感て当たるから、そこで感じた違和感は放置したら勿体ないわ。必ず、何かしら裏があったり。アンラッキーな事が多いのよ。そういうのって、今すぐではなくて後からそれが判明する事が殆どだから怖いのよ』
キアラはそう語ってあっけらかんと笑った。外見に違わず、勝気で気位の高い部分は持ち合わせていたが、それらを表情には出さない術は完璧に身に着けていた。人によっては、それが近寄り難い印象更を与えてしまうのは否めないが。だが実際はそのキツイ外見からは想像がつかない程、世話好きで思い遣り深い性質だった。努力家な上に高潔で曲がった事を好まず、それでいて我を通したりはせずに根気よく話し合う事で互いを理解しようとする。更には、寂しがりやな癖に意地っ張りな面もあったりして。
けれどもその姿は、心を開いたごく親しい者以外は見せない。表向きは、淑女の御手本のように振舞っていた。それこそ、威圧感を与える程に。それは隙を見せない為だった。皇太子の婚約者という立場上、いつ寝首をかかれるか分からない。僅かな油断が奈落の底に転落、または死に直結しやすいからだ。
(違和感か……今にして思えば、いくつも感じてはいたな。だけど、見ないようにしていた……)
ジルベルトは在りし日を振り返り、自嘲する。
エドワードは、自分が発したキアラという名前が切っ掛けで、弟が過去に思いを馳せている事を察した。
(……あの時、少しでも苦言を呈する者に耳を傾けられたら……また違った未来があっただろう。けれどもう、起こってしまった事は変えられない。なぁ、キアラ。そうだろう?)
エドワードの瞼の奥に、キアラがほくそ笑む姿が映し出される。
(さて、兄として弟の背中を押してやるとするか。最初から、弟といしてここに来たのだものな。じゃなければ、私が跪いて『帝国の永遠に輝ける太陽に……』なんて長ったらしくて、回りくどい皇帝賛美切り口上を言わないと皇帝不敬罪で捕まってしまうからな。影が何もして来ないところを見ると、やはり弟として訪ねて来たと見て良いだろう)
弟の回想からやんわりと現実に返す為、歌うようにして話しかける。
「ジルベルト、放逐された身で言う事ではないが……我が一族は『色情』というか『女難』と言うべきか……そう言った遺伝子でもあるのかと思う時があるよ」
虚を突かれて目を見開く弟もまた可愛らしく思う。そのまま言葉を続けた。
「とは言っても、古今東西……王族やら貴族から、陰謀や欲望やらが渦巻く世界ならそういうのは別に珍しい事ではないのだろうけれど。階級に限らず、痴情の縺れやら骨肉の争いやら。そういうのは神話の時代から描かれているものだしね」
ジルベルトは、兄が何を言わんとしているのか探ろうとするように聞き入っている。皮肉の一つや二つ、言われるだろうと予測しているようだ。エドワードにそんなつもりは無いが、それだけ罪悪感に囚われているのだろう。そろそろ本題に入ろうと、柔らかな笑みを浮かべた。
「我らが父上なんて、まさにそれらの典型例じゃないか! だからね、僕は恋愛とか結婚とかそういう男女関係についてはかなり臆病でね。もうトラウマと言って良いだろうね。……でもね、ジルベルト。君ならそういう罠にハマる事なく、賢王になれる! そう思って楽しみにしていたんだ」
ジルベルトはハッとしたように眉を上げ、俯いて申し訳なさそうに頭を下げる。そんな弟に、慈愛に満ちた眼差しを向けつつソ、ファから立ち上がり静かに近づいて行った。
「誤解しないでおくれ。別に嫌味や皮肉を言おうとしている訳じゃないんだ。ただ、ちょっとだけ厳しい事を言わせて貰うけどね」
弟に対面すると、ゆっくりと右膝をついた。弟を見上げるような形で、彼のその目を見つめる。眠気が一気に吹き飛ぶような鮮やかなネオンブルーの双眸。どこまでも深く澄み渡る南国の海を閉じ込めたかのような瞳。今はそこに、深い悔恨の影が揺らめく。だが、すぐに迷いを断ち切るようにしてその影が消え、代わりに意志の力を込めた強い光がエドワードを射抜いた。頷いてその先の言葉を続ける。
「僕はね、キアラが君の傍に居てくれるなら、心配はいらない。そう思っていたんだよ」
ジルベルトは、そう言われる事を予測していたのだろう。溜息とともに肩を落とし、力無く微笑んだ。
「君が選んだ人の事を、僕はよく知らないから憶測では何も言わない。ただね、何が言いたいかというと、キアラは王妃としての器に適しているから、ジルベルトの剣にも盾にもなる上に支えてくれる癒しの樹にもなってくれる。だから安心していたんだよ」
怯えたように狼狽える弟の姿が、初めて飼った時のモルモットを思い起こさせた。
「……やはり、兄上。私の決断は間違っていたのでしょうか……?」
震える声でそう問いかける弟の背中を、右手で優しく撫でてやる。
「間違っていた! と断言するのは僕の独断になってしまうから言えないけど。少なくともあの時のジルベルトはリア王状態になっていた、そう思うよ」
「リア王……見せかけの甘言に騙され、本当に信じるべき人を蔑ろにしてしまった……」
愕然とした様子だ。かなりショックを受けたのだろう。だが、ここで甘い言葉をかけてやるのは、弟が自らが感じて考えて決断する力を妨げてしまう。敢えて畳みかけるような口調で続けた。
「せめて、キアラの悪行の数々を証拠と共に提出して来た者たち、噂の数々、証言の出所は本当に真実を述べているか信頼性、公平性はどうなのか? 鵜呑み妄信せずに、冷静に裏の裏まで精査すべきだったよね。あの時の君は、意を唱え苦言を呈した者たちの意見を聞きもしなかった。僕の意見も、けんもほろろに突き放された一人だったね」
可哀相なほど、首を垂れ「面目ない……」と消え入るように呟くジルベルトに、表情を緩める。
「だけど君は、自分の間違いに気づいた。大事なのはそこからどうするか、じゃないかな。もう、決めているんだろう? だから『影』を二人も立て、城を空けた」
「はい」
ジルベルトは頷くと、ためらいながら口を開いた。
「……兄上から見て、アンジェは王妃に相応しいと思いますか?」
エドワードは真っ直ぐに弟を見つめたまま、躊躇せずに応じた。
「相応しくなくたって王妃にはなれるさ。だって、我々の父上が皇帝を務めていたくらいだもの。周りを固める側近が優秀だったからね。それが、国民にとって吉と出るか凶と出るかは……また別の話になるけれどね。父上は周りに恵まれたよね。一つ言えるのは、聖女様が王妃の場合、側近の質が問われるんじゃないかとは思うよ」
『こたえ』は弟自身が見つけなければいけない事だと感じ、エドワードはそれ以上は言葉を控えた。不意に、キアラの笑みが脳裏に浮かぶ。
(恋愛や結婚に懐疑的な僕だけど、もしキアラとだったら……結婚も良いかもしれない。そんな風に淡い想いを抱いていたのは、僕の永遠の秘密だな)
そう胸に秘めながら、机の引き出しに大切に保管してあった『ある物』を取りに立ち上がった。
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